受けついで、寛永3年(1626)に完成した。 なぜ「いたちぼり」というかと言うと、次のように四つの説があげられる。 |
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1. | もと阿波座の阿波屋西村太郎助家の所有地だったのが、寛永8年(1631)新町郭ができたとき、敷地を割り売りしたので、断売堀、また居断堀の地名ができたと、西村家家伝に記されている。 |
2. | 攝津名所図会大成によると、大阪冬の陣夏の陣のとき、伊達正宗が陣地を構え、要害の堀切をした跡を掘り足して川としたので、始めは伊達掘と呼んでいたのが、字音のまま伊達掘と
言いならわしたという。 |
3. | 鼬がいたから鼬堀となり転化して立売堀になったという説もある。 |
4・ | もと材木の立売りが行われたので立売堀と書き、これを「いたちぼり」と転音して読むようになったという。 |
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、原文のまま。彩字筆者。 |
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10月 |
17.90
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6.28
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2月 |
14.06
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23.60
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2月 |
16.77
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5.60
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10月 |
17.58
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8.18
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12月 |
18.10
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6.42
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10月 |
21.00
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6.58
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3月 |
20.73
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18.29
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貞享4年前 |
9月 |
18.44
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8.03
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明暦以前 |
3月 |
19.20
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13.33
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西六いまむかし30周年記念誌
西六連合振興町会発行、 原文のまま。 |
様式については、橋梁メーカーのページにあるかもしれません(^o^)
取り敢えず松尾橋梁鰍ウんへ お得意先のお得意先なので。(^o^) |
写真類の無断転載は、お断りいたします。 |
水の都と呼ばれる大阪は、古来、川と橋が無数にあった。川の大半は、水運の為に開削された運河である
その水の都を象徴しているともいえる地域が西六であった。 注)このあたりは西区の行政区の内6番目であり新町・立売堀・西長堀ともに歴史の有る地名でありどれか一つで言い表すことができなかった為、
西六は、立売堀川―西横堀川―西長堀川―木津川の四つの川に囲まれた、いわば”島”であった。
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上1610年頃の大阪 下1716〜1736年の大阪 大阪市教育委員会「大阪市100年のあゆみ」 玉置豊次郎著「大阪建設史夜話」より |
冬の陣・夏の陣で豊臣の大阪城は落城、第2次大戦の空襲にも比すべき惨状が城下町を覆い、大阪は焦土と化した。徳川家康は翌日直ちに甥の松平忠明に戦後の復興にあたらせた。
現在の西六地区が市街地として編入されたのもこの頃であって、市中に散在していた遊所が
町がほぼ復興すると、10年がかりで30予国64の諸大名が動員され、徳川の大阪城の再建が始められた。
これらの堀川が西区に集中しているのは、西区が言うまでも無く大阪湾と船場を結ぶ中間点に
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