LAST UP DATE 06/JUL/1999
FIRST UP DATE 14/APR/1999
地名の由来立売堀川の誕生架かっていた9橋
立売堀の変遷史川が消えていく歴史の証言
謝辞


地名の由来
立売堀は元和6年(1620)に開削に着手され、一時工事が中断されていたところへ、三郷惣年寄り宍喰屋次郎右衛門が
受けついで、寛永3年(1626)に完成した。
なぜ「いたちぼり」というかと言うと、次のように四つの説があげられる。
1. もと阿波座の阿波屋西村太郎助家の所有地だったのが、寛永8年(1631)新町郭ができたとき、敷地を割り売りしたので、断売堀、また居断堀の地名ができたと、西村家家伝に記されている。
2. 攝津名所図会大成によると、大阪冬の陣夏の陣のとき、伊達正宗が陣地を構え、要害の堀切をした跡を掘り足して川としたので、始めは伊達掘と呼んでいたのが、字音のまま伊達掘と
言いならわしたという。
3. 鼬がいたから鼬堀となり転化して立売堀になったという説もある。
4・ もと材木の立売りが行われたので立売堀と書き、これを「いたちぼり」と転音して読むようになったという。
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、原文のまま。彩字筆者。
TO TOP



 
立売堀川に架かっていた9橋(東から)
橋名
架けられた年
改築年月
橋長M
幅員M
様式
新一橋
寛永3年
大正9年
10月
17.90
6.28
上路框構式I型鋼橋
阿古島橋
明治41年
昭和4年
2月
14.06
23.60
上路鋼鈑桁橋
槌橋
寛永3年
大正7年
2月
16.77
5.60
框構式木桁橋
明治橋
明治41年
昭和2年
10月
17.58
8.18
上路鋼鈑桁橋
阿波橋
寛永3年
昭和4年
12月
18.10
6.42
框構式I型鋼橋
立売橋
寛永3年
大正11年
10月
21.00
6.58
I型鋼桁橋
宍喰屋橋
寛永3年
大正8年
3月
20.73
18.29
木単桁橋
西二橋
明暦3年
貞享4年前
大正15年
9月
18.44
8.03
上路鋼鈑桁橋
高橋
寛永3年
明暦以前
昭和12年
3月
19.20
13.33
鋼鈑桁橋
西六いまむかし30周年記念誌
西六連合振興町会発行、
原文のまま。
様式については、橋梁メーカーのページにあるかもしれません(^o^)
取り敢えず松尾橋梁鰍ウんへ
お得意先のお得意先なので。(^o^)
名前をクリックしていただくと橋の写真と紹介記事がご覧になれます。
写真類の無断転載は、お断りいたします。
TO TOP


川が消えていく

水の都と呼ばれる大阪は、古来、川と橋が無数にあった。川の大半は、水運の為に開削された運河である
。天下の台所と言われた往時、諸国の物産は舟運によって大阪市中に運び込まれ、ここから再び舟で諸方に運ばれたいった。そして、夏の宵など涼風の吹き渡る橋の上は、また格別の風情があった。

 その水の都を象徴しているともいえる地域が西六であった。

注)このあたりは西区の行政区の内6番目であり新町・立売堀・西長堀ともに歴史の有る地名でありどれか一つで言い表すことができなかった為、
西区の番目ということで西六となずけられたらしい。

西六は、立売堀川―西横堀川―西長堀川―木津川の四つの川に囲まれた、いわば”島”であった。
言いかえれば”川でもつ町”でもあった。ところが、その川が消滅する日がきた。31年1月、まず立売堀川
が埋め立てられてしまった。市当局によれば、同川は水運に事実上、役立たなくなって久しかった。また
年々、水質が悪化して、衛生上、問題があった。さらに、これが一番大きなねらいだったと思われるのは、
増える人口に対する受け皿づくりだった。「用をなさなくなった」川は、文字通り”無用の長物”だったわけだ。
 
このうめたてに、連合会としての動きはなかった。当時の関係者の一人は「ジェーン台風やルース台風のときの被害がみんなの頭の中にあったようで、また川があふれたりしたらかなわん、という気持ちが、
とくに埋め立て反対の行動をとらせなかったんとちがいますか」と言う。埋立地は隣接地主に坪2万円ほどで払い下げられた。いまでは、埋め立てられたあとすら定かでなく、住居やビル、店舗の立ち並ぶ土地と
なっている。
 

西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、原文のまま。彩字・注筆者。
TO TOP


立売堀川の誕生

1610年頃の大阪
1716〜1736年の大阪
大阪市教育委員会「大阪市100年のあゆみ」
玉置豊次郎著「大阪建設史夜話」より
西六地区は、夏の陣の焦土復興から作られていった。

冬の陣・夏の陣で豊臣の大阪城は落城、第2次大戦の空襲にも比すべき惨状が城下町を覆い、大阪は焦土と化した。徳川家康は翌日直ちに甥の松平忠明に戦後の復興にあたらせた。
その顕著な開発の一つは運河の開削で、東横堀川の南端、西横堀川の南端、いずれも堀留になっていたのを道頓堀川を開削することによって開通させ、土佐堀川の南に江戸堀川、そのまた南に京町堀川を
それぞれ開削させた。

現在の西六地区が市街地として編入されたのもこの頃であって、市中に散在していた遊所が
ここに集められ、大阪唯一の公認花街として町づくりがおこなわれた。

町がほぼ復興すると、10年がかりで30予国64の諸大名が動員され、徳川の大阪城の再建が始められた。
豊臣の大阪城が3年から5年、20カ国の大名を動員して造られたのと比べても遥かに大規模なもので、
それだけ以前にもまして人や資材が大阪に集まった。その運搬の為に、さらに堀川の開削が進められ、
慶長5年に完成した阿波堀川の南には元和6年に掘り始められたが中断されていた立売堀川が、
後に述べる惣年寄の一人宍喰屋次郎右衛門によって寛永3年に、さらにその南には長堀川が寛永2年
に、その南には掘江川が元禄11年に、他薩摩堀川が寛永7年、海部堀川が寛永元年にそれぞれ開削された。

これらの堀川が西区に集中しているのは、西区が言うまでも無く大阪湾と船場を結ぶ中間点に
位置するわけであるが、一方その土地が全般に低湿地帯であったから、堀川の開削で掘り上げた土によって盛り上げをしなければ町造りができなかった事にも由来する。
したがって運河の開削は、海運交通と町造りの一石二鳥を担ったわけで、
地あげされた土地は下水溝を整備し、区画計画をたててから家をたてさせたので、
船場や島之内同様、通りと筋の町並みが築かれ、下水溝は戦前まで市民の生活に活用された。

西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、一部変更。彩字筆者。
TO TOP