|地名の由来|立売堀川の誕生|架かっていた9橋|
|立売堀の変遷史|川が消えていく|歴史の証言|
|謝辞|
こうして開発された掘り川は、京町堀掘り川口には生魚商人が集まってのちに雑魚場となった
魚市場が、立売堀・長堀川などには材木が集積されて木材市場が、海部堀川の永代浜には 海産物市場が、それぞれ開かれ、のち「出船千艘入船千艘」「諸色値段相場の元方」 「天下の台所」と称せられる基を築いていった。 さきに伏見より移住した80余町は、初め伏見組と称していたが、本町通りを境として、
当時の地図には、●が北組、▲が南組、△が天満組、などの合紋で組み分けされている。 西六の大方は南組だが、吉野町、九軒町、新京掘り町、新掘り町などは北組に属している。 大阪は幕府の直轄地であったから、大阪城には城主が置かれず、城代が交代して治め、
惣年寄りの下には町年寄りがあって、水帳(土地台帳)、宗門人別長(戸籍)を管理した。
大阪町人は、各町で納めなければならない「公役」と、各組で支払わねばならない「町役」
ほかに地子銀と称する幕府へ納める地租があったが、官営11年(1634)三代将軍家光が
この釣鐘「大阪町中時報鐘」は明治4年以降府庁の屋上に管理されていたが、昭和60年
幕府はその後も洪水を防ぐ為に、天和3年(1683)に淀川を改修し、翌貞享元年より4年にかけて
こうして開削された多くの運河には、上荷船・茶店が、諸国の回船から引き継いだ貨物を
堂島の米市場、天満の青物市場、雑魚場の魚市場は、大阪の三大市場といわれ、諸国の蔵米
これら大阪に集まる各地の産物は、正徳4年(1714)で約120種、銀高にして約8万6千5百貫目
こうして大阪夏の陣で大阪が灰燼に帰してから50年たらずの寛文5年(1665)には、
当時の貨幣は、金、銀、銭の3種類があって、金は1両小判、1分金、1朱金があり、10進法では
本両替は現在の銀行のようなことも行い、取締役に鴻池善右衛門、天王寺屋五兵衛、
これらの本両替は、前述したように諸藩の蔵屋敷の蔵元や掛け屋を勤めたから、
と書いているが、天保年間(1830〜44)の終わり頃には、大名はそれまで利息支払いのために
こうして大阪町人は、初期は徳川の門閥的軍需商人であったが、江戸中期になってくると、
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大阪の地盤沈下は江戸後期から始まった
しかし江戸時代も後期になると、江戸の経済状態が悪化してきて
江戸積みの代銀延滞が多くなった為, 大阪の問屋では江戸の問屋からの注文通り荷物を送らなくなった。 一方地方の荷主は大阪の問屋を通しても埒があかないと言うので, 直接地方の需要地へ出荷するようになる。 このようなことから、かつてのように全国の荷物が大阪に集まらなくなり
大阪の問屋が直接買い集めていた近郊の菜種や綿も、土地商人がでて
しかし大阪に入って来た長州兵や薩摩兵が津村別院を本拠にして
大久保利通は旧弊を一新する為には,「遷都の地波華に如くべからず」と
しかし大阪の経済力に依存せざるを得ない新政府は,大阪遷都の代替として、明治天皇の
しかし大阪商人に決定的な打撃を与えたのは、慶応4年9月に出された銀目廃止令であった。
さらに明治4年には廃藩置県で蔵屋敷が廃止されて大阪に物資が集まらなくなり、
西区のように殊に諸藩の蔵屋敷の林立していた所は、その影響は甚大であった。 くり返して整理すれば、江戸後期より顕在化していた大阪の経済的地盤沈下は、
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![]() 明治初期の堂島蔵屋敷 大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会) 写真左下が川右下に米俵が見える。 |
慶応4年2月15日、堺でフランス兵に対する土佐藩兵の発砲事件があった。
これは開港した神奈川・長崎などが,多く外国人に搾取され、物価が高騰し 外国人を排除する攘夷論が激しくなった背景がある上に、座視し得ぬ暴挙が フランス兵にあったようである。 開国和親の政策を取っていた政府は、因果を含めて20名の土佐藩士を堺の 妙国寺で切腹させることによって収拾しようとした。 その20名を決める籤を引いたのが現在有る土佐稲荷神社の神前で、生死を
幕末以来中断していた川口の外人居留地造成を、明治政府が急がせたのはこうした
この川口港開港と呼応して、明治7年(1874)新府庁舎が、造幣局につぐ2番目の
こうして大阪は甚だしい経済的地盤沈下に対する再興の確たる手がかりを持たないまま、
明治27〜8年の日清戦争は、鉄道、銀行、紡績の興隆をもたらすとともに、
明治30年川口港に代わる築港の起工、
明治41年には四ツ橋―九条花園橋間、
この為長堀川北岸にあった材木市場の移転が迫られたが、西六地区の交通は
このようにして西六周辺は、大阪港と船場の中間に位置する為に大阪の要としての
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![]() 大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会) 大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会) 大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会)
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川口の外人居留地造成なんと聖バルナバ病院はここにたてられた。<出産ネタ
川口港は、水深が浅く淀川が氾濫するたびに上流の土砂が堆積した為。 江之子島現在も西区江之子島として地名が残っています。 築港新たに港を築いたところからこの名前がついていますが大阪港です。ちなみにこの時の開削した土砂でできたのが天保山。 九条花園橋―築港間に市電が開通このときの写真がありますので昔の写真館にUPします。 四ツ橋はダイヤモンドクロスこれもこのときの写真がありますので昔の写真館にUPします。 |
![]() 当時の築港開港を祝うポスター 大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会) |
日清戦争,日露戦争を契機として大阪は工業都市として飛躍的な発展をなし、
地の利を得ている西六地区も、主として木津川よりに,新たに鉄材,機械工具,金具,船具の店が, 従来からの木材などの問屋街と軒を競い,狭い通り筋は積荷を満載した車馬が行き交い、 周囲の河川は終日上り下りする船舶の往来で賑わうようになっていった。 第1次世界大戦は多くの成金を続出させ、同じにその反動の経済恐慌を招来して、銀行の
かくて「書経」の「百姓昭明,万邦協和」から命名された昭和時代に入るわけであるが、
しかし同年,御大典記念の大阪城公園と待望の天守閣が完成したことは、大阪にとって
9年9月、風速60mを記録して風力計を吹き飛ばしたと言う室戸台風は、高潮も伴って
しかし準戦時体制は強化され軍事予算は10億を超え、軍需インフレは西六地区の問屋街
12年、四ツ橋に東洋一の電気科学館が開設されて、大阪のみならず全国の話題となったが、
石油,石炭,鉄などの軍需物資は勿論、15年からは、砂糖,マッチ,米,衣料など、
それに伴い、17年5月企業整備令が出されて協定価格が取り決められ、
19年になると、1月、本土決戦に備えて疎開令が発令され、8月に学童集団租界が始まり、
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電気科学館現在は取り壊されてありません。建築中の写真と・戦前の写真四ツ橋の風景には欠かせないものですね。
Comingsoon |
戦後の混乱と荒廃を解消,復旧させる為の施策が政府によって次々,打ち出された。
21年2月、インフレ防止をねらった金融緊急措置令が出され、旧円封鎖、新円切り替え 預貯金払い出し制限などが行われた。 新円は一律月500円までしかもらえず、国民は家財道具などを売り払っては食いつなぐ
これに先立つ20年12月、政府は全国の羅災都市に対し、土地区画整理を主体にした
戦災復興の為の土地区画整理事業は,荒廃した土地を抜本的に整理して,道路を新設
この事業達成の為、土地所有者は3割を供出、新設の道路や公園の用地に引っかかる場合は
そこで、生じるであろう色んな問題をスムーズに処理・解決する為、児島平太郎氏
24年10月、西長堀北通3丁目の大阪木材商業協同組合事務所
25年4月、G・H・Qの公職追放令により児島氏は退任
運営に当たっては、当初は代替地、希少坪数土地など、利害に関わる問題が多く、
25年4月。7ヶ月のスピード作業だった。
27年3月、西区区画整理事業はほぼ完了、設立の目的を達成したので、委員会は
その後の復興について・・・・機械金属関係はこちら
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