LAST UP DATE 06/JUL/1999
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地名の由来立売堀川の誕生架かっていた9橋
立売堀の変遷史川が消えていく歴史の証言
謝辞



立売堀の変遷史
超高度成長した天下の大阪
大阪の地盤沈下は江戸後期から始まった
西六周辺はかって大阪の中心であった
鉄鋼製品の問屋が増えていく
敗戦そして戦後の復興



超高度成長した天下の大阪
こうして開発された掘り川は、京町堀掘り川口には生魚商人が集まってのちに雑魚場となった
魚市場が、立売堀・長堀川などには材木が集積されて木材市場が、海部堀川の永代浜には
海産物市場が、それぞれ開かれ、のち「出船千艘入船千艘」「諸色値段相場の元方」
「天下の台所」と称せられる基を築いていった。

さきに伏見より移住した80余町は、初め伏見組と称していたが、本町通りを境として、
北を北組、南を南組と称するに及んで、間もなく廃止されてそれぞれの組に統合され、
別に大川以北の町家を天満組と称して、この三組をあわせて大阪三郷と総称した。

当時の地図には、●が北組、▲が南組、△が天満組、などの合紋で組み分けされている。

西六の大方は南組だが、吉野町、九軒町、新京掘り町、新掘り町などは北組に属している。

大阪は幕府の直轄地であったから、大阪城には城主が置かれず、城代が交代して治め、
その下に東町奉行所(合同庁舎1号館前に碑が有る)、西町奉行所
(東区備後町19産業能率研究所構内に碑が立っている)があり、
その下に与力30騎、同心50人がいた。
しかし実際に三郷の行政を担ったのは町人から選ばれた惣年寄りで、
多くは町の開発者でもあり、長堀川や立売堀川を開いた宍喰屋次郎右衛門
西横堀川を開いた木屋七郎右衛門
道頓堀川を安井道頓と協力して開いた安井久兵衛ら町人が代々世襲した。

惣年寄りの下には町年寄りがあって、水帳(土地台帳)、宗門人別長(戸籍)を管理した。
この町年寄りは町人の中から選ばれたが、町人とは家屋敷を所有する者のことで、
借家人には選挙権も被選挙権も無く、寄り合いにも参加できなかった。

大阪町人は、各町で納めなければならない「公役」と、各組で支払わねばならない「町役」
の納税義務があった。

ほかに地子銀と称する幕府へ納める地租があったが、官営11年(1634)三代将軍家光が
大阪に立ち寄った折、三郷11183石余の地子銀を免除した。人々はその恩恵を記念するため、
釣鐘を作って釣鐘屋敷を建て、時刻を報ずることにした。

この釣鐘「大阪町中時報鐘」は明治4年以降府庁の屋上に管理されていたが、昭和60年
6月10日の時の記念日に、115年ぶりに装いを新たにして元の釣鐘町に里帰りした。

幕府はその後も洪水を防ぐ為に、天和3年(1683)に淀川を改修し、翌貞享元年より4年にかけて
安治川を開き、宝永元年(1704)には大和川の付け替え工事をするなどして、水利の弁をはかり、
新田・新地の開発をした。

こうして開削された多くの運河には、上荷船・茶店が、諸国の回船から引き継いだ貨物を
運送して営業権を独占し、菱垣廻船や樽廻船によって江戸と密接に交通し、元禄11年(1698)
にはその数3623艘にものぼったという。

堂島の米市場、天満の青物市場、雑魚場の魚市場は、大阪の三大市場といわれ、諸国の蔵米
をはじめ、阿波の藍、土佐・長門・石見の紙、土佐の鰹節、播磨・周防の塩、薩摩の砂糖などが、
堂島に近い中之島・土佐堀川・江戸堀川沿岸の蔵屋敷に運び込まれ、売買された。
その出し入れは蔵元という商人にまかせ、代金は掛け屋にあずけたので、
蔵本と掛け屋を兼ねる豪商は、諸国の財政に深く食い込み、ほとんど藩の財政を自由にすることができた。

これら大阪に集まる各地の産物は、正徳4年(1714)で約120種、銀高にして約8万6千5百貫目
にのぼり、それらは全部大阪の諸問屋役5,700人仲買人8,800人の手を経て、
各地へ流れ出、その品目約90種、銀高約9万5千8百貫目の巨額がうごいている。

こうして大阪夏の陣で大阪が灰燼に帰してから50年たらずの寛文5年(1665)には、
人口26万8千人、4半世紀後の元禄2年(1689)には33万人に達した。

当時の貨幣は、金、銀、銭の3種類があって、金は1両小判、1分金、1朱金があり、10進法では
なく、4分金、16朱金で1両に相当する。銀は小石のような豆板金、なまこの形をした丁銀があり、
さらに厄介なことに形も目方も不同であるので、一々秤に掛けねばならない。その上金一両は銀
50匁〜60匁の間で変動があり、庶民が主に使用する銭も1両約4貫(4千)文が相場で、これも
変動した。ここに両替屋の必要が生じ、本仲間両替(略して本両替)、南仲間両替(略して南両替
)、三郷銭屋仲間両替(略して銭両替)ができた。

本両替は現在の銀行のようなことも行い、取締役に鴻池善右衛門、天王寺屋五兵衛、
平野屋五兵衛ら十人両替が選ばれた。
人々はこれらの両替屋に預金があることは信用を厚くすることと考え、
金銭に余裕があると、両替屋に預け入れた。

これらの本両替は、前述したように諸藩の蔵屋敷の蔵元や掛け屋を勤めたから、
秋の回米を抵当にして、大名貸しをした。
大阪の町人学者山片幡桃は、著書「夢の代」享和2年(1802)の中で
「今の諸侯、米価何程貴しと雖も国用足らず。
故に3年・5年の貢物税を、1年に得るとも補ふべからず。
近年だんだん天下の金銀多くなりて、その半ば大坂にあり。ゆえに天下これを富饒の地とす。
東西の諸侯、みな大坂に借りて用を弁ず。」

と書いているが、天保年間(1830〜44)の終わり頃には、大名はそれまで利息支払いのために
また借金すると言う悪循環がつもりつもって、諸藩の大阪回着米約400万石のうち300万石も、
大阪町人から借用した6,000万両の利息にあてられたという。

こうして大阪町人は、初期は徳川の門閥的軍需商人であったが、江戸中期になってくると、
自らの才覚と勤勉と信用によって材を成し、士農工商の最下位に置かれながら、
富の力によって武士の足をひっぱっていった。

西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、より抜粋。
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大阪の地盤沈下は江戸後期から始まった

かし江戸時代も後期になると、江戸の経済状態が悪化してきて
江戸積みの代銀延滞が多くなった為,
大阪の問屋では江戸の問屋からの注文通り荷物を送らなくなった。
一方地方の荷主は大阪の問屋を通しても埒があかないと言うので,
直接地方の需要地へ出荷するようになる。

このようなことから、かつてのように全国の荷物が大阪に集まらなくなり
、次第に経済的地盤沈下が始まって行った。

 大阪の問屋が直接買い集めていた近郊の菜種や綿も、土地商人がでて
農民と結びつき、村や郡や国の違いを越えて横の連携をとりあい、
領主や特権商人の買占めを排除するようになって行った。
有名な大塩平八郎の米騒動はこのような幕藩体制の揺さぶりを背景に
行われたもので、大阪の約1/5、二万軒近くを焼いたが、被害者であるはずの
市民が彼らに同情的で、後につづけとばかり
慶長4年、徳川慶喜が大阪城を捨て、江戸へ逃れると、大阪は城代も町奉行も無く
囚人は解放されて無政府状態となり、さらに砲撃で大阪城は炎上して市中騒然となり
暴徒が横行したので、町人は夏の陣落城の時と同様,我先にと大阪を捨てていった。

しかし大阪に入って来た長州兵や薩摩兵が津村別院を本拠にして
市内の取り締まりに当たり、「市民慰撫の令」を発して人心を和らげたので、
治安は回復して行った。

大久保利通は旧弊を一新する為には,「遷都の地波華に如くべからず」と
大阪への遷都を画策したが失敗,このときもしも大阪に首都が置かれていたら、
その後の大阪は今日とは様相を一変していたであろう。造幣局が大阪に設立された
のも、大阪に首都が決まりそうな情勢にあったからであった。

しかし大阪の経済力に依存せざるを得ない新政府は,大阪遷都の代替として、明治天皇の
大阪僥倖を仰ぐことによって、新政府確立の莫大な資金を大阪商人に要求、
その調達に成功した。

しかし大阪商人に決定的な打撃を与えたのは、慶応4年9月に出された銀目廃止令であった。
すなわち関東では個数による金貨取引であるのに対し、
大阪では秤量による銀目取引であったから、その相場を利用して正業を営んでいた
両替商、富豪商人はたちまち40軒が倒産した。

さらに明治4年には廃藩置県で蔵屋敷が廃止されて大阪に物資が集まらなくなり、
6年には藩債処分が行われるなどによって、「諸国第一の取引の場所」といわれた
大阪経済界も一時に失速状態に陥り、「大阪は饒富天下に冠たりというも、従来の
ことにて、今は甚だ衰退に属せり」といわれるに至った。

西区のように殊に諸藩の蔵屋敷の林立していた所は、その影響は甚大であった。

くり返して整理すれば、江戸後期より顕在化していた大阪の経済的地盤沈下は、
@大阪城炎上を象徴とする無政府状態
A新政府への膨大な資金の上納
B銀目の廃止
C蔵屋敷の廃止
D株仲間の解散
E藩債の処分
などによって致命的とも言える打撃が加えられることになるのである。


明治初期の堂島蔵屋敷
大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会)
写真左下が川右下に米俵が見える。
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、より抜粋。
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西六周辺はかって大阪の中心であった
慶応4年2月15日、堺でフランス兵に対する土佐藩兵の発砲事件があった。
これは開港した神奈川・長崎などが,多く外国人に搾取され、物価が高騰し
外国人を排除する攘夷論が激しくなった背景がある上に、座視し得ぬ暴挙が
フランス兵にあったようである。
開国和親の政策を取っていた政府は、因果を含めて20名の土佐藩士を堺の
妙国寺で切腹させることによって収拾しようとした。

その20名を決める籤を引いたのが現在有る土佐稲荷神社の神前で、生死を
分ける籤を引くというのも劇的なら、切腹現場に立ち会ったフランス人があまりの
凄惨さに動転し、11名で打ちきらせた。
助かった12人目以下の心境も複雑で,森鴎外が「堺事件」と題して小説に書いている。
しかし、これは史実に忠実でない、知られざるドラマがあるというので、大岡昇平が
目下フランスの資料も集め、ライフワークの小説に取り組んでいる。

幕末以来中断していた川口の外人居留地造成を、明治政府が急がせたのはこうした
時代背景からで、外人の大阪に対する期待も大きく、2万6千uに及ぶ九条村北端
一帯は、道路は舗装され、洋館が建ち並んだ。しかし川口港は、水深が浅く
大型船の出入りができず不便であった上に、外人がこちらの無知につけ込んで
暴利を得ようとしたので、大阪商人の貿易に対する関心を薄れさせ、思いのほか
不振に陥り、明治8〜9年ごろには外人にも見切りをつけられた。

この川口港開港と呼応して、明治7年(1874)新府庁舎が、造幣局につぐ2番目の
本格的洋風建築として、まだ一面の芦原であった江之子島に建てられた。
「大阪湾は西方にあり、大阪湾から広く海外に雄飛せねばならん」と海に向かって
正面玄関が置かれたので、「市民に尻を向けるとはケシカラン」と悪口をたたかれたが、
完成したときは、皮肉にも隣の川口居留地は外国人が引き揚げを始め出していたところで、
見込んでいた舞台の中心が移動し始めていたことになる。

こうして大阪は甚だしい経済的地盤沈下に対する再興の確たる手がかりを持たないまま、
保守的な模索をしていたが、18〜9年頃漸く工業都市としての活路を見出した。

明治27〜8年の日清戦争は、鉄道、銀行、紡績の興隆をもたらすとともに、
船舶や鉄鋼製品の好況も招来し、これがひいては西区に鉄鋼関連製品の問屋街を
形成する胚胎となった。

明治30年川口港に代わる築港の起工、
  36年に開港、同年には内国勧業博覧会が今の天王寺公園で開催され、
    同時に九条花園橋―築港間に市電が開通、さらに観客をあてこんで、
 ポンポン船を新町―湊町―夷橋―日本橋を就航させて大繁盛になった。

明治41年には四ツ橋―九条花園橋間、
       梅田―難波―今宮間が開通、

この為長堀川北岸にあった材木市場の移転が迫られたが、西六地区の交通は
一段と便利になり、38〜39年の日露戦争後の好景気、その反動の株暴落、
銀行恐慌の波をくぐりながら、産業の発達が促され、四ツ橋はダイヤモンドクロス
といわれて、交通の要衝となった。

このようにして西六周辺は、大阪港と船場の中間に位置する為に大阪の要としての
重みを増したが、やがて府庁舎が江之子島を去り、川口外国人居留地が神戸に移って
神戸港が発展してゆくに連れて、市の交通の中心も御堂筋、
堺筋へと移ってゆくようになるのである。

川口波止場(大阪名所三十六景より)
大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会)

川口居留地の「聖バルナバ病院」
大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会)
 
 

江之子島にあった大阪府庁舎(大阪市政が行われた)
大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会)
 

 

川口の外人居留地造成なんと聖バルナバ病院はここにたてられた。<出産ネタ
川口港は、水深が浅く淀川が氾濫するたびに上流の土砂が堆積した為。
江之子島現在も西区江之子島として地名が残っています。
築港新たに港を築いたところからこの名前がついていますが大阪港です。ちなみにこの時の開削した土砂でできたのが天保山。
九条花園橋―築港間に市電が開通このときの写真がありますので昔の写真館にUPします。
四ツ橋はダイヤモンドクロスこれもこのときの写真がありますので昔の写真館にUPします。

当時の築港開港を祝うポスター
大阪市100年のあゆみ(大阪市教育委員会)
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、より抜粋。彩字注釈作者
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鉄鋼製品の問屋が増えていく
日清戦争,日露戦争を契機として大阪は工業都市として飛躍的な発展をなし、
地の利を得ている西六地区も、主として木津川よりに,新たに鉄材,機械工具,金具,船具の店が,
従来からの木材などの問屋街と軒を競い,狭い通り筋は積荷を満載した車馬が行き交い、
周囲の河川は終日上り下りする船舶の往来で賑わうようになっていった。

第1次世界大戦は多くの成金を続出させ、同じにその反動の経済恐慌を招来して、銀行の
取りつけ騒ぎや工場や商店の倒産と揺れ動いたが,12年の関東大震災とそれに続く復興
は、関西の供給を要請し、14年には市域拡張も行われて、大大阪へと発展していった。

かくて「書経」の「百姓明,万邦協」から命名された昭和時代に入るわけであるが、
御大典奉祝気分に浸ったのもつかの間、2年の金融恐慌、4年の世界恐慌は深刻な
通貨不安をもたらし、不況失業の波が押し寄せ、6年には満州事変が勃発、戦争の
泥沼へとのめりこんで行く。

しかし同年,御大典記念の大阪城公園と待望の天守閣が完成したことは、大阪にとって
明るいニュースであった。これは住友家から25万円の寄付があったのを始め、少額10銭
に至るまで、半年の間に目標額の150万円が集まり、50万円弱で天守閣を復元、
100万円余で、師団司令部の新築を含む公園の整備に当てたと言う。

9年9月、風速60mを記録して風力計を吹き飛ばしたと言う室戸台風は、高潮も伴って
西六地区西部は浸水も招く被害を出した。

しかし準戦時体制は強化され軍事予算は10億を超え、軍需インフレは西六地区の問屋街
にも波及して一時的な活況をもたらした。

12年、四ツ橋に東洋一の電気科学館が開設されて、大阪のみならず全国の話題となったが、
直後に日中戦争が勃発し、本格的な戦時体制に突入、国民精神総動員が叫ばれ、金融、貿易
物資の戦時統制が打ち出され,13年の国家総動員法,14年の国民徴用令の公布と、
資金も機械も国内において全て賄わなければならなくなったわが国は,
急速に統制経済が強化されて行った。

石油,石炭,鉄などの軍需物資は勿論、15年からは、砂糖,マッチ,米,衣料など、
生活物資も配給制になり、政治上も一国一党を目標に既成の政党は解散、大政翼賛会が
誕生し、平和産業から軍需産業へ、軽工業から重工業へと、中小企業の整備が強化され、
一時活況に沸いた西六地区の問屋街も,商業組合を結成して、
配給統制強化に備えなければならなかった。

それに伴い、17年5月企業整備令が出されて協定価格が取り決められ、
西六地区の業者も多く振るいに掛けられたが、次第に商品は不足し始めて組合は解散
店主や店員も応召や徴用で借り出されて急迫の一途をたどっていった。

19年になると、1月、本土決戦に備えて疎開令が発令され、8月に学童集団租界が始まり
11月にはB29の本土空襲が開始され、翌20年3月13日夜から14日にかけての
大阪第空襲により、西六地区は全滅、文字通り灰燼に帰してしまったのであった。

電気科学館現在は取り壊されてありません。建築中の写真と・戦前の写真四ツ橋の風景には欠かせないものですね。
Comingsoon
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、より抜粋。彩字注釈作者
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終戦そして戦後の復興
戦後の混乱と荒廃を解消,復旧させる為の施策が政府によって次々,打ち出された。
21年2月、インフレ防止をねらった金融緊急措置令が出され、旧円封鎖、新円切り替え
預貯金払い出し制限などが行われた。

新円は一律月500円までしかもらえず、国民は家財道具などを売り払っては食いつなぐ
"タケノコ生活”を強いられた。

これに先立つ20年12月、政府は全国の羅災都市に対し、土地区画整理を主体にした
戦災地復興基本方針を発表,これを受けて大阪市は21年9月、61.14平方キロに
のぼる区画整理地域の都市計画決定を行い、21年度から5ヵ年計画として着手、
その後、財政事情から事業区域を35.23平方キロに縮小、期限も33年度に延長する。

戦災復興の為の土地区画整理事業は,荒廃した土地を抜本的に整理して,道路を新設
拡幅したり,緑地公園を整備したりして、将来における好ましい都市環境を作るのが
眼目である。

この事業達成の為、土地所有者は3割を供出、新設の道路や公園の用地に引っかかる場合は
代替地を受ける。しかし一口に供出、代替地といっても、土地評価の地域格差や
複雑な権利関係から見ると、大変な事業である。

そこで、生じるであろう色んな問題をスムーズに処理・解決する為、児島平太郎氏
(旧在郷軍人会西六分会長)、庫内軍八氏らが発起人となって、「西六復興委員会」を
設置することになり、

24年10月、西長堀北通3丁目の大阪木材商業協同組合事務所
(現在の木材会館)で創立総会が開かれた。席上、児島氏らから設立主旨の説明があり、
事業資金などの議案審議の後、委員長に児島氏、副委員長兼会計に庫内氏、土地所有者代表
に山田三郎氏が選出された。

25年4月、G・H・Qの公職追放令により児島氏は退任
山田氏が後任委員長になった。

運営に当たっては、当初は代替地、希少坪数土地など、利害に関わる問題が多く、
トラブルが相次いだが、やがて順調に進行していった。
区画整理の図面が出来上がったのは

25年4月。7ヶ月のスピード作業だった。
土地所有者に伝えられ、精算金は5年の割賦で市から支払われることに決まった。

27年3月、西区区画整理事業はほぼ完了、設立の目的を達成したので、委員会は
幕を閉じた。

その後の復興について・・・・機械金属関係はこちら
                印刷関係はこちら

 

西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、より抜粋。彩字注釈作者
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