LAST UP DATE 12/JUL/1999
戻る
地名の由来立売堀川の誕生架かっていた9橋
立売堀の変遷史川が消えていく|歴史の証言|
謝辞


歴史の証言
空襲状況報告書集団疎開の思い出西六にお世話になって60年
台風とわが町の思い出西六は第二の故郷大阪大空襲の生き残り



今は無き西六小学校で大阪大空襲の日(昭和20年3月13日)
宿直をされた松尾先生が翌日校長先生宛に提出された状況報告書。
空襲状況報告書
昭和20年3月13日に宿直した松尾義夫先生が翌日校長に提出した状況報告書である。当夜の空襲の状況、学校消失の状況が
手に取るように詳しくわかる貴重な書類である。
これは大阪市教育委員会に残されていて、堀江中学の大森校長を通じて入手することができた。
涙無くして読むことができない。松尾先生の責任感の強さに頭の下がる思いがする。
西六小学校全景図
3月13日当夜学校警備その他の校内宿泊者、訓導松尾義夫、使丁紫原松次郎、警防団員5名、
訓練生約100名、教官2名。

13日午後11時過ぎ警報発令、約15分後空襲警報となる。校内全部消灯、防火用水を点検し重要書類を書類庫に運搬す。
防火活動万全を期して待機す。警防団員続々参集約100名となる。

同20分頃敵機来襲、新館屋上にありて状況監視す。市南部天王寺方面と、それよりやや西方、
西成方面に焼夷弾投下され火災生ぜしを望見す。

11時30分頃敵機の爆音近づくと見る間に、数回にわたりて西方松島方面に花火の如く焼夷弾落下す。
一時やや火光暗くなり消火成功なるかの如く見えしが、間もなく火光空に映じ、所々に紅連
の炎立上るに至り、やがて木津川対岸一帯、火の襖を並べたる如くになる。
その間爆音爆音の絶え間無く、次ぎに立売堀川をへだてて、広教部内に数多の投弾あり、
之亦一帯の火災となる。警防団のポンプ応援のため団員も若干出勤せし模様なり。

当夜風殆ど無かりしが、その頃より西風漸次つのり火粉しきりに飛来、延焼のおそれ多分にあり、
かけおりて書類搬出せんと2階に来れるとき、区内西方5丁目方面と東方立売堀2丁目方面とに
焼夷弾落下の通報を聞く。

階下に来り見れば、付近住民の老幼者校内に避難し来り、暗き廊下に殺到して
通行意の如くならず。

漸く使丁室前まで来れるとき、頭上に大炸裂音聞ゆと思う間に校舎校庭一面火の海と化す。
とっさに防炎メガネをかけ大声呼号して壕内にありし訓練生を呼び、警防団員(すでに出勤、
校内にありし者少数のもようなり)などと協力して消火につとむ。大半消し止めたれども、南側物入れ
小屋屋上、東棟屋上、使丁室屋上の3ヵ所消火に至らず。盛んに火焔をあげ特に
北棟使丁室屋上は最も火勢強く、屋根を抜き天井に燃え移る。バケツを持ちて馳せつけしが
火勢すこぶる強し、使丁紫原ほか数名とともに既に懸命に消火につとめおれり。注水10数回しかし
火勢衰えず。一面もうもうたる煙、天井をはう焔に危険身に迫るを感ず。

この間敵機はたえず頭上を飛び、何回となく校内及び周囲の民家上に投弾す
(新館窓ガラスを打ち抜き室内に入るるもの数個あり。
それぞれ商家につとめたりと後刻聞けり)ふと気づけば屋内体操場より叫喚の声しきりに聞こゆ。

正門2階の炎上と南側非常口近くの物置の炎上に逃げ場を失い、煙に巻かれたる
老幼者の悲鳴なり。急ぎかけつけ幼児を抱き老者を導きて南側電車道まで誘導すること数回、
その間火は木造校舎の廊下を伝って全部に拡がり、残念ながら消火の見込み立たず。

書類を搬出せんと周囲の12,3名を呼び連れて書類庫に向かいしが時すでに遅く、
ガラスの破損個所より火の入りしものが、1階教室(書類庫の向かい)食糧営団貯蔵の食糧猛火となり、
熱気と煙に到底書類庫に達するを得ず。万事休す。

全校舎炎々と燃え、熱気のため校内に止まるを得ず。焔と煙の下をはって漸く長堀川電車道に逃る。
川を隔てて南側堀江部内も火の海、四面全く火、川岸にありても熱気にたえられず。
之に加うるに火勢による旋風の為に飛散するトタン板、倒れる電柱、電線などに身甚だ危険なり。

一時難を避くべく四ツ橋方面に走る。途中焼夷弾の落下に遭うこと3回、焔を飛び越え漸く
科学館前にたどりつく。音火焔、旋風、火の粉、避難者。

4時、火勢やや静まりたる頃、再び引き返せしが、木造校舎は、うず高き火の塊となり、
数本立ち残る柱が煙の中に真紅の輝きを見せるのみ。新館2・3階の窓より悪霊の舌とも見ゆる
焔をはくを望見す。敵機の仕業とはいえ、わずか数時にして、かくもはかなく変わるものか、
唯夢の如し。

6時、夜明けを待ちて西華校、電気科学館など、児童の避難所を巡回、慰問激励す。
昨日来消息不明にて案じおりし使丁紫原、片目を痛めながら元気な姿にて来れるを見漸く安堵す。

消火に力及ばずして遂に校舎校具を全焼せしむ、当直責任者として誠に申し訳無し。
また鉄筋不燃性建築を過信して書類を書類庫に納め、消火にのみ努めて搬出の時期を失し
之をも灰燼に帰す。事の順序判断を誤りたるため、事後の整理上、職員一同に多大の迷惑を
及ぼすこととなれり。

茲に謹みて市長閣下ならびに学校長及び職員に謝す。

以 上
(原文カタカナ、旧かなづかい)
訓導小学校の先生
使丁用務員さん
訓練生約100名、教官2名徴兵出征前の軍事訓練を西六小学校で実施していた。
広教部内西六小学校校区北隣の校区
区内西方5丁目西区西長堀北通5丁目(旧地名)木津川と西長堀川の合流するあたり。
南側電車道西長堀北通電車道
堀江部内西六小学校校区南隣の校区
西華校現在の大阪市立西高校(当時は西華女学校
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、原文のまま。彩字・注筆者。
TO TOP

昭和20年西六国民学校卒業生 高田康子様
集団疎開の思い出
”次の世を背負ふべき身ぞたくましく
正しく伸びよ里に移りて”  良子(皇后陛下)
戦局たけなわとなりつつある昭和19年9月、
西区内に残っている小学3年生から6年生までの児童は、島根県へ集団疎開をすることになりました。

私達西六国民学校は島根県でも一等地の出雲大社、
しかも参道に面した一流旅館7軒(4年生の男子だけ隣村のお寺)に分宿しました。
警戒警報の発令される大阪と違い、実にのんびりとして空は澄み山あり、川あり、海あり、
環境は絶好の地でこれが今日のように、
臨海学校か何かに来ていたのならどんなに素晴らしかったことでしょう。

でも私達はもう大阪に帰れないかも知れないし、2度と家族に会えないかも分からない
極限の状態におかれていたのです。
だから夜になって大社駅のほうから最終列車の汽笛が「ポーッ」と夜空にこだますると、
「あの汽車の終点は大阪だ」と思っただけで涙がドッとあふれ、
お月さんを見ると自然に涙がポロポロとこぼれてくるのです。
1週間ぐらいは全員でワアワア泣いて大合唱になりました。

だけどやはり子供ですネ。半月もするとすっかり環境にとけこみ、大社の町を我が庭のように遊び廻りました。
初めてみる日本海の荒波に感激したり、晴れた日「みせん山」という山に登ると、
はるか「隠岐、対馬」の島々が箱庭のように眺められ、心が広くなるような気がしました。

戦争中のことなのでこんな田舎でも食糧不足。毎日2切れか3切れのさつまいもかメリケン粉の団子汁ばかり、
お腹が空いて空いて、先生に内緒で大阪の家へ「おやつを送って/何か食べ物を送って/」と葉書出しました。
出雲大社の境内のドングリを採って食べたり、ハミガキ粉をなめたりしました。

山陰の冬は厳しく、氷のような水で洗濯をして手はしもやけではれ上がり、つらい思いをしました。
時々近くの大社小学校をお借りして勉強をし、地元の女先生にナギナタを教えていただきましたが
教室にかかっていた「艱難汝を玉にす」と書いた額の前で足がしびれるぐらい正座をさせられたことは忘れません。
亡き恩師の無言の教えが今になって分かって来ました。

楽しい思いでも一杯あります。「20年ぶりの大雪じゃ、疎開っ子に見せてやろうと思ったんじゃ」
と大人達が言うぐらいの大雪が降り、私達は大喜びで裏の大社中学のグランドで雪だるまを
つくり転がして帰ったり、よそのごみ箱の木のふたを拝借して、出雲大社の前の坂をソリのように
して滑ったりしました。

昭和20年3月1日、私達6年生男女は上級学校受験の為下級生や地元の人々に送られ半年ぶりに
なつかしい大阪へ帰って来ました。
そして卒業式の前日、3月13日の大空襲で家も学校も一夜のうちに灰と化してしまったのです。

大空襲

昭和20年3月13日夜、疎開先から帰ってきて2週間が経ち、いよいよ明日は西六国民学校の卒業式、
枕元によそゆきの服を並べ、普段着をきたまま床についた。

10時半頃だったろうか、
ラジオが「大本営発表/敵B−29が90機編隊で熊野灘から紀伊水道へ北進中」というニュース、
やがて警戒警報が発令された。
父は「いつもと違う/早く支度をしなさい/3人離れないように。もしもの時は学校で会おう。」
と言ってあわてて会社のほうへ出て行った。
ニュースを聞いていると阪神方面へ向かっているという。防空頭巾をかぶり身支度をした。

空襲警報が発令され、しばらくすると「ドーン」という音とともにあたりが赤緑に光り夕焼けのような空になった。
表に飛び出すと「落ちた/とり菊の所だ/」と誰かが叫んでいた。
松島橋西南詰めにあった料亭とり菊あたりに照明弾が落ちたらしい。
シーンと静まり返ったところへ今度はシューシュシュと焼夷弾が落ちて来た。母と姉は火たたきを持って走っていった。

私はどうしようとおろおろしているとのどがイガらくカラカラになって息が苦しくなってきた。
家の中へ走って入り水道の蛇口に口をおしあてうがいをした。

中庭から空をみると真っ赤である。母と姉はもどってくると「もうあかん/早逃げよう/」と言って走り出した。

伯楽橋の上まで来て我が家を見るとまだどうもなっていない。
「まだいける/取りに行こ/あんたはここを動いたらあかんよ」といって私を置いて2人は家の方へもどった。

夜空を仰ぐとまるで星がおどりながら落ちてくるように焼夷弾が降ってくる。
真上が何か暗いのでじっと見ると、米国の星条旗とB29のマークのついた機体が見えた。
なんとパイロットまで見えるではないか。

私はびっくりして橋のうえに身を伏せた。
心臓がどきどきして「もうあかん/」と思った。

「さあ早く」という母の声に気がついて、西区役所のほうへ走り出した。
母は一斗入りの米袋を背負い姉は箱のような物を持っていた。
もたもた走っていると、皆が逃げてきて、「あっちはもうあかん。火の海や、玉川のほうがええらしい」と言っていたが、
橋の上が風と火の粉で、とても地上には、いられない状態でヨロヨロしていると、
警防団らしき人が「橋の下に入りなさい」と声をかけてくださったので階段を降りて橋下に身をよせた。

焼夷弾はようしゃなくピューピューパラパラと降り、川につないであったハシケの上に落ち、
真っ赤に燃えた船が火の塊となって流れてくる。熱くて苦しくてどうにもならない。
警防団のおじさんが川の中へ入り私達の方めがけて川の水をバケツでかけてくださった。

「水をかけて/水をかけて/」と皆口々に叫んでいる。
コンクリートの橋脚が焼け付いて、背中が熱く、今水をかけてもらってもすぐ乾きオーバーまでパリパリになる。
1時間〜2時間生と死の闘いである。

隣で姉が「苦しい。死ぬ/死ぬ/」と叫んでいる。私は必死で神に祈り続けた。
ドカンドカンという音がだんだん遠ざかり、火の手もしずまってきた。

橋の下から見ると煙ともやで何も見えない。

やがて東の空が白み始めた。「もう上がってもいいだろう」誰かが言ったので一人、二人と順番に地上へ出ていった。

まだ建物や木々がくすぶり、風が吹くと火の粉が散り、カラカラになった服や髪の毛にちょっとつくとパッと燃え上がる。

人を頼っておられない。自分で自分を守るよりほかにない。皆は必死でパタパタと火の粉を払った。

お稲荷さんの横の原っぱにトロッコのような鉄の車が並べてあったので私達はその中へ入った。

朝6時ごろだったろうか。ドドドと雷のような音がしたあとパラパラと黒いすすけた雨が少し降り、
これであたりが湿ったので、やっと火の粉から開放された。皆はそろそろと立ちあがり、うつろな目を
してゾロゾロと歩き出した。

私達ももと来た道を歩き出した。橋の上に立つと見渡す限り何もなく、
四ツ橋の電気科学館がボヤッと見え、西六国民学校の鉄筋校舎と西区役所が黒ずんで見えた。
西の方は築港のほうまで見えるような気がした。
足元にダッコちゃんのように小さい真っ黒の赤ちゃんが転がっている。「マア」といって母は泣き出した。
市電が燃えて鉄枠だけがのこり、その下にスルメをあぶったような格好で男の人が死んでいる。

我が家は恐らく最後のほうで類焼したのか、まだくすぶり続け、表の大きな防火用水が2つ平然と並んでいた。
3人は溢れ出る涙をぬぐおうともせず、学校の方へトボトボと歩いた。
花園国民学校には避難者がぞくぞく詰めかけ、近所の人と再開して喜び合っていた。

約束していた父がなかなか来ないので胸さわぎがしてきた。
誰かが神社の集団防空郷の中で人が一杯死んでいると話している。
キョロキョロしていると煤で真っ黒の顔をした父の姿が見えた。「お父ちゃんー」家族4人は抱き合って泣いた。

罹災証明書をもらい、松島―白髪橋―福島を通って大阪駅へ向かった。

途中の水たまりは血の水。ビルの上から「バサー」と異様な音とともに窓のガラスが落ちて来る。
ポーンと飛び上がるような音がする。

歩道脇の防空壕から真っ青な顔のお母さんがよろよろと出てくる。背中の赤ちゃんはもうぐったりしていた。

たった一夜で西区は死の町、道という道は修羅場と化し、足が震えて前へ進まない。
父に手を引いてもらってやっと大阪駅へたどりついた。
駅は大勢の羅災者でごった返し、兵隊さんが炊き出しをしておにぎりとカンパンをくばってくれた。
私達一家は満員の汽車に押し込まれて疎開先の親戚へ向かった。

昭和57年になり新聞紙上に大一回大阪大空襲は230機が来襲、
無差別に焼夷弾を落としていったというアメリカの資料が載っていた。
ほんとうに恐ろしいことである。2度とこのような経験はしたくない、子孫にもさせたくないものである。
 

無差別の大空襲と今に知る 逃げのびし命大切にせな
おかげさまで30年ぶりの昭和50年、
役員方々のご尽力により旧西六国民学校と堀江国民学校合同の卒業式をしていただき、
なつかしい友と再会することができました。
松島橋西南詰め今も木津川に架かる江戸時代橋の西たもとに大きな松があったことからつけられた。
その地点に碑文があります。
伯楽橋同じく木津川にかかる。松島橋の南隣の橋。今ではこの橋から南の方角を見れば大阪ドームが見えます。
玉川のほう現在も大阪市福島区玉川。文中では北の方角。
お稲荷さん土佐稲荷神社現存します。桜の花見のシーズンにいらっして下さい。夜店も出てきれいですよ。
橋の上伯楽橋からお稲荷さんへいき、また戻ったとあるのでこの橋は当時西長堀川に架かっていた玉造橋とおもわれる。
現在は埋め立てられ長堀通りとなっています。
花園国民学校不明推測でお許し頂くならばおそらく九条のどこかの学校そして
そのあとの神社とは九条の茨住吉神社であろう。

現在の土佐稲荷神社
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、原文のまま。彩字・注筆者。
TO TOP



藤井鉄男様 藤井高圧工業株式会社会長(昭和60年当時)
西六は第二の故郷
大正7年16歳の時、故郷の江田島をあとにして来阪、立売堀で管工機材を営んでいた
豊福商店に丁稚奉公したのが始まりである。

当時豊福商店は従業員65人、朝5時から夜12時近くまで働き、月給50銭、市電が5銭
だったから、休みはミナミまで歩いていって、たいてい漫才を聞いてまた歩いて帰った。
その入場料が5銭、月給が1円50銭になったときはうれしかった。

しかし結核にかかり一時浜寺の病院に入院。
良くなって出て来たとき、豊福商店は倒産していたので、今度は桜川の牧田製作所に勤めた。
まもなく徴兵検査で広島第5師団へ、帰ってきて大正13年10月30日、22歳の教育勅語発布の日、
弟と藤井兄弟商会を設立した。
このとき新町に店を構え、西六の一員になったわけである。

当時立売堀は大別して北は材木問屋、南は管工機材問屋が多く、ここで丁稚奉公した番頭らが、
鉄関係は新町5丁目から4丁目へやって来て独立して店を出し、西から東へと延びて行った。
私の場合もその例にもれない。現在でも鰹座橋という名前残っているように、街角には
鰹節屋が多かった。

初めブロカー業から出発して順調に成長したが、昭和11年数え35歳の時新町の家事で丸焼けにあった。
ついで37歳の時応召、上海、南京と転々とし、徐州へ行軍して倒れ、内地送還になった。
そして羅災、終戦。

戦後は必ずよいものを使う時代がくるとドイツの技術に学んで一歩先んじた高圧バルブ、
高圧継手の製品を造り、人から笑われ、借金に苦しんで身投げしようかと思ったときもあったが
持ちこたえたのが、今日の大成した所以と思っている。
男はここぞと思うときに度胸を据えてかからねばいけない。

西六はそれまで他の地区から来た者には、副になれても正の長にはなれない因習があったが、
私の場合その禁を破って西六赤十字奉仕団連合団長に選ばれ、以来18年にわたって任を
勤めさせていただいた。

西六地区ではないが、江戸堀に予算20億の馬券場が造られるというので、4年半かかって
反対して阻止したことや、地下鉄千日前線が昭和42年に開通したが、その立ち退き補償や
水道工事などで奔走し、私の店も現在のところに移転したこと、それから長堀川の埋め立て、
―このため材木問屋が八尾の小林町に団地を造って移転、新たにできたグリーンベルトに
植樹を行い、最初3年間は堀江の人たちが清掃に奉仕されたが、現在は靱公園の管理になっている
そんなことや、東京に一つ大阪に一つの厚生年金会館、―神戸にもっていかれるところだったが、
大野伴睦氏の死去によって、一部反対などあったが誘致に成功したことなど、地域の皆様の
お役に立てばと、西六連合振興会長や、西区社会福祉協議会長、西区保護司会長や
西防犯協会長その他をお引き受けし、色々苦労した思い出は尽きない。

西六地区には市の消防局が西消防署と併設されてあり、市の中央急病診療所があるのをはじめ、
西区役所、西保健所、新町電話局などがあって、西区の官庁街のような観を呈している。

さらに東洋最初のプラネタリウムを設置した電気科学館や、先に述べた厚生年金会館
などの存在は、他に例を見ない西六の貴重な建造物である。

その厚生年金会館の前の公園に、戦前9軒の桜で有名であった名残を留めるべく、
桜を植えたのを始め、西六地区内の公園すべて桜を植えるようにして、皆様に喜んで
頂いていることを光栄に思っている。

ともあれ西六は私の第二の故郷であり、紺綬褒章や大阪市民表彰、日本赤十字本部金色有功章、
法務大臣表彰、厚生大臣表彰などをいただいたのも、西六にあって、
皆様方にいろいろご支援頂いたおかげと感謝しています。

厚生年金会館、―神戸にもっていかれるところだったが、
大野伴睦氏の死去によって、一部反対などあったが誘致に成功した。西六小学校の校庭が新なにわ筋建設のため立ち退きとなり
その代替地が現在大阪厚生年金会館の有る場所であったが地区学童の減少で小学校建設より厚生年金会館の誘致が優先された。
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、原文のまま。彩字・注筆者。
TO TOP


隅田辰夫 様(浪速ポンプ製作所社長)昭和60年当時
台風とわが町の思い出
昭和36年(1961)9月6日、マーシャル諸島東部に発生した弱い熱帯低気圧は、
8日午後には発達して台風18号となり、その後西北西に進み、12日以後は、
昭和9年(1934)9月21日に室戸岬に上陸した室戸台風とほとんど同じような経路を
通って9月16日室戸岬に上陸し、その後、紀伊水道北部から大阪の西部を経て近畿地方の
西部を通過、日本海へ抜け、同日夜半には北海道に達した。

その最盛期には中心気圧、最大風速及び暴風半径とも記録的なものとなり、強さにおいて、
昭和9年(1934)の室戸台風によく似ていたので、第二室戸台風と命名された。

その足取りを追ってみますと

9月6日 マーシャル諸島東部に発生し西進
  8日 台風18号となって西北西に進む
 11日 グアム島南方通過、沖ノ鳥島南東約500キロの地点では中心気圧888mb、最大風速100m。
 14日 沖縄に近づく、中心気圧890mb、中心付近最大風速75m/s

一方、14日には日本海側から前線が南下してきて瀬戸内海付近に達し、近畿地方や中部地方では、
この前線に台風の間接的な影響も加わって、かなり強い雨が降り出した。

15日朝「近畿地方に向う見込み」という台風情報第1号が大阪管区気象台から発表された。

 15日 九州南部は朝から、四国南岸は昼頃から次第に暴風雨となった。

大阪湾では大小船舶2000余隻が完全退避した。
夜は徹夜で最後の防備体制が行われた。

 16日 9時過ぎには室戸岬の西を掠め本土に上陸、ほぼ一直線に北東進した。
    13時過ぎには大阪市の西方
    14時過ぎには京都市の西部を経て、15時ごろ、敦賀市付近に達した。

大阪付近での中心気圧935mb
    13時40分南南東33.3mという最大風速を記録した。

その後、この台風は日本海に抜け、能登半島東部を北北東に進み、16日青森西方、
17日宗谷海峡から、18日カムチャッカ半島に上陸して弱まった。

この台風の近畿地方を襲った足並みは、

9月16日 12時淡路島南端に上陸、洲本の北で再び海上に出て大阪湾を北東進し、
     13時には大阪湾の中央を通過、13時半頃、尼崎のすぐ西に上陸、
(大阪湾の東部には大型船が多数避難していた。)
     14時、山崎の北西を通過して鶴賀付近から日本海上に出た。

この台風は昭和9年の室戸台風とコースが類似し、その規模及び強度もほぼ匹敵し、
大規模な暴風を伴った。その猛威は四国南部から近畿地方全般に及び、
大阪府は全般に16日10時半頃から風が強まり、12時ごろからは20m/sを超え、
16時頃まで暴風が続いた。

最大風速33.3m、最大瞬間風速50.6mで、室戸台風に次ぎ、ジェーン台風を凌駕した。

高潮の状況

第二室戸台風は暴風と最低気圧の為、大阪湾沿岸に大きな高潮をもたらした。
高潮は16日未明から次第に潮位が高まり、11頃から急上昇しはじめた。
13時、高潮警報基準値を超え、14時ごろ最高潮位となった。

このような記録的な高潮の為、特に西大阪の内陸河川には高潮による洪水が起こり、
また、一部河川堤防の破損の為、西大阪一帯に渡って浸水し、
一部では21日朝までこの状態が続いた。

第二室戸台風が、室戸、ジェーン台風と異なっていることは、府下の主要海岸および
大阪市内を走る河川や運河の岸に沿って、総延長124kmに及ぶ防潮堤が
昭和34年3月に竣工していたことである。

一方、大阪市西部およびその周辺は、地下水汲み上げに原因する地盤沈下現象があり、
室戸台風以後(大阪市条例で井戸による汲み上げを禁止されております)
沈下量は、甚だしい所では2mに及んでいた。

このため、防潮堤も年々沈下していた為高潮は、各所で防潮堤を乗り越え、
一時は市内の浸水面積31kuに及んだ。
しかし、防潮堤の為、高潮による浸水面積は、以前と比べると、かなり減少
していることは事実である。

第二室戸台風で記録されている被害状況は

大阪市内の浸水戸数

9月16日20時において、床上浸水約61,000戸、床下浸水約47,000戸であった。

以上の資料は、大阪管区気象台より頂き、まとめたものであります。

歴史の流れ、その流れとは、その時代時代の人々と共に築かれたものであります。
今日に生きておられます私達西区区民の皆様も、多くの先人達のおかげで今日の
西区の繁栄ある事を決して忘れてはいけないと強く思いまして本文をまとめてみました。

第二室戸台風が、室戸、ジェーン台風と異なっていることは、府下の主要海岸および
大阪市内を走る河川や運河の岸に沿って、総延長124kmに及ぶ防潮堤が
昭和34年3月に竣工していたことである。
台風による浸水の被害は予想されていたので、もはや無用の長物となっていた立売堀川等は
昭和31年に埋め立てられている。
第二室戸台風の床上浸水の事は私も子供心に記憶がありますね。(^^ゞ
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、原文のまま。彩字・注筆者。
TO TOP
増進堂・受験研究社社長 岡本恵年 様(昭和60年当時)


西六にお世話になって60年
小学一年に入学して間もなく私の家は島之内から現在の新町に引っ越してきた。
ちょうど大正13年の春であった。
あれから60年あまり、その間台風や高潮にあったり
警防団に入って防空演習に参加したり、また社員の徴用や召集を見送っているうちに、
私自身にも召集令状が来て応召した。

朝鮮に入隊し中支を転々とし、転属になって上海の当時日本租界にあった十三軍司令部の
暗号班に到着したのは昭和20年3月14日であった。

その前日に大阪第一回の大空襲があったのである。
この大空襲で西六一帯は焼け野原と化し、私の家も社屋も羅災し、用紙も出版した本も
積み上げたまま周囲から燃えて一週間もくすぶり続けていたと聞かされた。

十三軍司令部の暗号班に着くなり「おまえの国は何処か」と聞かれ「大阪です」と答えると
既に情報が届いていて、大阪は昨日大空襲があり、焼け野原になったと知らされたのであった。

父からの便りで焼けたのを知ったのはそれから一週間くらいたってからであった。

―終戦後の新町の出版事情―

終戦後、当時は増進堂受験研究社の社屋も家も新町一帯が大阪第一回の大空襲で
焼け野原になっていた。

昭和21年ごろ焼け残った土蔵を改造して事務所にし、18坪のバラックを建てて
仕事を始めた。

当時の新町は新しく建った家も少なく毎日高師浜から南海電車で通っていた。

当時、私の父政治は良く太っていたが元気で増進堂受験研究所の社長をしていた。
弟の博夫も復興の仕事を手伝っていた。

印刷所は、大阪では焼けた印刷機を修理してやっと印刷ができるようになった時で、
組版まではとてもできず、組版の為には淡路島の志筑(しづき)にある井村印刷へ、
米をリュックサックにつめて4・5日泊りがけで出掛けていたのである。

組版の初校がある程度出揃ったところでそれを持ち帰って、次回は紙型にしてもらって
持ち帰る。
その紙型と苦労して手に入れた用紙を復興した大阪の岩岡印刷や寿印刷に渡して
印刷が始まると言う状態であった。

大阪ではまだ製本所の復興したところはなく、用紙事情も統制が解かれ自由化に
なっていたが、本文の用紙は上更紙が手に入ればまだましな方で、黄色い仙花紙
やロール紙の少し厚手のもの(現在は日めくりのカレンダーに使っている紙)
または真っ白いセルロイド原紙などを本文の用紙の変わりに使っていた頃で、
物のない誠に仕事のしにくい時代であった。

当時は焼け残りの土蔵を事務所に改造し、その前に建てた平屋のバラックを倉庫にして
当時増進堂受験研究社も復興が始まっていた。

戦前からベストセラーであった富田常雄先生の「姿三四郎」も紙型が消失したので
新しく作り直し、戦後の版が出版されたのは22年ごろであった。

その当時は小谷一三氏(現在の教学研究社社長で小生の叔父)はまだ増進堂受験研究社
の大番頭であったが、徴用や応召した社員も帰らぬまま終戦当時のこととて
岡本家の一族だけで復興の仕事を始めていた。

小谷氏が新町を歩いているとき、偶然福井の郷里から大阪の様子を見に来ていた
高広製本所の先代の高広氏とバッタリ会ったのである。

小谷氏は高広氏から仕事をしたいので場所を探していると聞かされた。
父は太っ腹で面倒見の良い人であったので、小谷氏から相談を受け、
倉庫として使用していたバラックの半分を貸してあげようと早速話が決まったのである。

しばらくたって高広製作所の機械が動き始めて、焼け野原のバラックの中から機械の
音が賑やかに聞こえ始めたのであった。

高広製本所の今は亡き先代の復興の最初の仕事は増進堂版のベストセラー「姿三四郎」
の製本から始まったのである。

「姿三四郎」の製本が出来次第待っていた取次ぎや書店が先を争うように持ち帰った
のを昨日のように鮮やかに思い出すのである。

道で出会ったのが縁で高広製本所の復興の糸口が新町になったことも不思議な運命の
巡り合わせと思われてならない。

その後現在に至るまで、当社の製本を一手に引き受けて頂き
仕事をするにも近所であるし、間に合わせてもらって
なにかにつけて大変ありがたいことと喜んでいるのである。

―復興する新町の出版界―

西区は、大阪の中でも区画整理の最も遅れた地区であったので復興がおくれ、
家の建つのが他区に比して大変遅れた。

昭和21年頃、土蔵を改造した事務所で私方増進堂受験研究社も仕事が始まっていた。

新町にあった大取次ぎの日本出版配給株式会社の大阪支店は統制会社が解体になって
新しく株式会社大阪屋として発足したし、増進堂受験研究社から独立して教学研究社
を始めた小谷一三氏は、土蔵を改造した増進堂の事務所の一角で仕事を始めていたし、
新町通りにある地図の和楽路屋(作者注:わらじや)の日下氏も新町の焼け跡に復帰して
地図の出版を始めていた。

私方のバラックを工場にして仕事をしていた高広製本所も軌道に乗って仕事は順調に
進んでいた。

そのような時の有る日、「いつまでも高師浜から通わずに大阪に出てこないと時代に
乗り遅れますよ」と御嶽教宝生教会の山本真道教会長様(現在白髪橋南詰の教会)
に教えられた。

私方も復興の仕事が軌道に乗るに連れて事務所も倉庫も手狭になった時であり、
西の辻に所有していた土地を教学研究社と高広製本所に譲って移転してもらった。
後に掘書店も移ってきてこの地で出版を始めた。

このように新町で出版社も取次店も製本所も復興を始めたのである。
戦前よりも新町の出版社の数が増え賑やかに復興が始まっていた。
新町に戦後の出版村の誕生である。

私は、あいたバラックの半分に床をはって畳を敷き、家内と娘と三人で寝泊りして
仕事をすることになった。何分近所に家も少ない焼け野原の一角に建っているバラックは
夜ともなれば人影も無く、寝ている頭の上をねずみが走るような状態で
心細い限りであったが辛抱して仕事を進めていった。

市内の公共の交通機関としては市電が走り、まだ電話も復興していない時で用事を
するためにあちこち走り回るのは自転車を用い、
仕事を進行させるためには自転車で先方まで出向いて頼んでくると言う不便な時代であった。

また、今はなくなったが問屋橋の下をながれる長堀川には鮒が住み、夏には近所の人が
水泳できるくらい水もきれいであった。
川のなくなった現在,考えてみると夢のような気がするのである。

しばらくして焼け跡にも電話が通じるようになり、
仕事の面でも非常に能率が上がるようになって、
一寸した用事も出向いて行かねばならなかったものが、
電話で済ますことができるようになった。

このように速い遅いの差はあったが、いろいろの面で新町も復興して生活の面でも
仕事の面でもだんだん便利な町に変わっていった。

終戦後再び祖父母の好んだ新町に帰り仕事ができることを,又西六の皆様方のご支援、
ご指導を頂いたお陰で、ここまで復興させて頂いたことを心から喜んでいる。

現在父政治の始めた参考書の出版や高校英語の検定教科書の出版に復帰し、
その出版に専念して昨年昭和59年11月3日に創業95周年を無事迎えさせて頂いて
心から感謝している次第です。

これからも皆様方のご支援とご指導を頂きながら、地域社会の発展に少しでもお役に
たちたいと考えています。

明日の西六がより良い町に発展することを祈ります。
 

増進堂受験研究社・教学研究社・大阪屋
浪速筋を長掘通りから一本北の通りに面して盛業されております。
地図の和楽路屋社長(西六いまむかし編集者)日下福蔵様
堀江中学校でご子息と同級生でした。(^^ゞ
西六いまむかし30周年記念誌西六連合振興町会発行、原文のまま。彩字・注筆者。
TO TOP
大阪大空襲の生き残り
川村さん宅の蔵
旧山田さん宅の蔵
グンヂルビ野細
旧西華女学校の校庭にあった銀杏

地名の由来立売堀川の誕生架かっていた9橋
立売堀の変遷史川が消えていく歴史の証言
謝辞

戻る