手に取るように詳しくわかる貴重な書類である。 これは大阪市教育委員会に残されていて、堀江中学の大森校長を通じて入手することができた。 涙無くして読むことができない。松尾先生の責任感の強さに頭の下がる思いがする。 |
![]() 訓練生約100名、教官2名。 13日午後11時過ぎ警報発令、約15分後空襲警報となる。校内全部消灯、防火用水を点検し重要書類を書類庫に運搬す。
同20分頃敵機来襲、新館屋上にありて状況監視す。市南部天王寺方面と、それよりやや西方、
11時30分頃敵機の爆音近づくと見る間に、数回にわたりて西方松島方面に花火の如く焼夷弾落下す。
当夜風殆ど無かりしが、その頃より西風漸次つのり火粉しきりに飛来、延焼のおそれ多分にあり、
階下に来り見れば、付近住民の老幼者校内に避難し来り、暗き廊下に殺到して
漸く使丁室前まで来れるとき、頭上に大炸裂音聞ゆと思う間に校舎校庭一面火の海と化す。
この間敵機はたえず頭上を飛び、何回となく校内及び周囲の民家上に投弾す
正門2階の炎上と南側非常口近くの物置の炎上に逃げ場を失い、煙に巻かれたる
書類を搬出せんと周囲の12,3名を呼び連れて書類庫に向かいしが時すでに遅く、
全校舎炎々と燃え、熱気のため校内に止まるを得ず。焔と煙の下をはって漸く長堀川電車道に逃る。
一時難を避くべく四ツ橋方面に走る。途中焼夷弾の落下に遭うこと3回、焔を飛び越え漸く
4時、火勢やや静まりたる頃、再び引き返せしが、木造校舎は、うず高き火の塊となり、
6時、夜明けを待ちて西華校、電気科学館など、児童の避難所を巡回、慰問激励す。
消火に力及ばずして遂に校舎校具を全焼せしむ、当直責任者として誠に申し訳無し。
茲に謹みて市長閣下ならびに学校長及び職員に謝す。 以 上
(原文カタカナ、旧かなづかい) |
訓導小学校の先生
使丁用務員さん 訓練生約100名、教官2名徴兵出征前の軍事訓練を西六小学校で実施していた。 広教部内西六小学校校区北隣の校区 区内西方5丁目西区西長堀北通5丁目(旧地名)木津川と西長堀川の合流するあたり。 南側電車道西長堀北通電車道 堀江部内西六小学校校区南隣の校区 西華校現在の大阪市立西高校(当時は西華女学校) |
戦局たけなわとなりつつある昭和19年9月、正しく伸びよ里に移りて” 良子(皇后陛下) 西区内に残っている小学3年生から6年生までの児童は、島根県へ集団疎開をすることになりました。 私達西六国民学校は島根県でも一等地の出雲大社、
でも私達はもう大阪に帰れないかも知れないし、2度と家族に会えないかも分からない
だけどやはり子供ですネ。半月もするとすっかり環境にとけこみ、大社の町を我が庭のように遊び廻りました。
戦争中のことなのでこんな田舎でも食糧不足。毎日2切れか3切れのさつまいもかメリケン粉の団子汁ばかり、
山陰の冬は厳しく、氷のような水で洗濯をして手はしもやけではれ上がり、つらい思いをしました。
楽しい思いでも一杯あります。「20年ぶりの大雪じゃ、疎開っ子に見せてやろうと思ったんじゃ」
昭和20年3月1日、私達6年生男女は上級学校受験の為下級生や地元の人々に送られ半年ぶりに
大空襲 昭和20年3月13日夜、疎開先から帰ってきて2週間が経ち、いよいよ明日は西六国民学校の卒業式、
10時半頃だったろうか、
空襲警報が発令され、しばらくすると「ドーン」という音とともにあたりが赤緑に光り夕焼けのような空になった。
私はどうしようとおろおろしているとのどがイガらくカラカラになって息が苦しくなってきた。
中庭から空をみると真っ赤である。母と姉はもどってくると「もうあかん/早逃げよう/」と言って走り出した。 伯楽橋の上まで来て我が家を見るとまだどうもなっていない。
夜空を仰ぐとまるで星がおどりながら落ちてくるように焼夷弾が降ってくる。
私はびっくりして橋のうえに身を伏せた。
「さあ早く」という母の声に気がついて、西区役所のほうへ走り出した。
焼夷弾はようしゃなくピューピューパラパラと降り、川につないであったハシケの上に落ち、
「水をかけて/水をかけて/」と皆口々に叫んでいる。
隣で姉が「苦しい。死ぬ/死ぬ/」と叫んでいる。私は必死で神に祈り続けた。
橋の下から見ると煙ともやで何も見えない。 やがて東の空が白み始めた。「もう上がってもいいだろう」誰かが言ったので一人、二人と順番に地上へ出ていった。 まだ建物や木々がくすぶり、風が吹くと火の粉が散り、カラカラになった服や髪の毛にちょっとつくとパッと燃え上がる。 人を頼っておられない。自分で自分を守るよりほかにない。皆は必死でパタパタと火の粉を払った。 お稲荷さんの横の原っぱにトロッコのような鉄の車が並べてあったので私達はその中へ入った。 朝6時ごろだったろうか。ドドドと雷のような音がしたあとパラパラと黒いすすけた雨が少し降り、
私達ももと来た道を歩き出した。橋の上に立つと見渡す限り何もなく、
我が家は恐らく最後のほうで類焼したのか、まだくすぶり続け、表の大きな防火用水が2つ平然と並んでいた。
約束していた父がなかなか来ないので胸さわぎがしてきた。
罹災証明書をもらい、松島―白髪橋―福島を通って大阪駅へ向かった。 途中の水たまりは血の水。ビルの上から「バサー」と異様な音とともに窓のガラスが落ちて来る。
歩道脇の防空壕から真っ青な顔のお母さんがよろよろと出てくる。背中の赤ちゃんはもうぐったりしていた。 たった一夜で西区は死の町、道という道は修羅場と化し、足が震えて前へ進まない。
昭和57年になり新聞紙上に大一回大阪大空襲は230機が来襲、
無差別の大空襲と今に知る 逃げのびし命大切にせなおかげさまで30年ぶりの昭和50年、 役員方々のご尽力により旧西六国民学校と堀江国民学校合同の卒業式をしていただき、 なつかしい友と再会することができました。 |
松島橋西南詰め今も木津川に架かる江戸時代橋の西たもとに大きな松があったことからつけられた。
その地点に碑文があります。 伯楽橋同じく木津川にかかる。松島橋の南隣の橋。今ではこの橋から南の方角を見れば大阪ドームが見えます。 玉川のほう現在も大阪市福島区玉川。文中では北の方角。 お稲荷さん土佐稲荷神社現存します。桜の花見のシーズンにいらっして下さい。夜店も出てきれいですよ。 橋の上伯楽橋からお稲荷さんへいき、また戻ったとあるのでこの橋は当時西長堀川に架かっていた玉造橋とおもわれる。 現在は埋め立てられ長堀通りとなっています。 花園国民学校不明推測でお許し頂くならばおそらく九条のどこかの学校そして そのあとの神社とは九条の茨住吉神社であろう。 ![]() 現在の土佐稲荷神社 |
豊福商店に丁稚奉公したのが始まりである。 当時豊福商店は従業員65人、朝5時から夜12時近くまで働き、月給50銭、市電が5銭
しかし結核にかかり一時浜寺の病院に入院。
当時立売堀は大別して北は材木問屋、南は管工機材問屋が多く、ここで丁稚奉公した番頭らが、
初めブロカー業から出発して順調に成長したが、昭和11年数え35歳の時新町の家事で丸焼けにあった。
戦後は必ずよいものを使う時代がくるとドイツの技術に学んで一歩先んじた高圧バルブ、
西六はそれまで他の地区から来た者には、副になれても正の長にはなれない因習があったが、
西六地区ではないが、江戸堀に予算20億の馬券場が造られるというので、4年半かかって
西六地区には市の消防局が西消防署と併設されてあり、市の中央急病診療所があるのをはじめ、
さらに東洋最初のプラネタリウムを設置した電気科学館や、先に述べた厚生年金会館
その厚生年金会館の前の公園に、戦前9軒の桜で有名であった名残を留めるべく、
ともあれ西六は私の第二の故郷であり、紺綬褒章や大阪市民表彰、日本赤十字本部金色有功章、
|
厚生年金会館、―神戸にもっていかれるところだったが、
大野伴睦氏の死去によって、一部反対などあったが誘致に成功した。西六小学校の校庭が新なにわ筋建設のため立ち退きとなり その代替地が現在大阪厚生年金会館の有る場所であったが地区学童の減少で小学校建設より厚生年金会館の誘致が優先された。 |
8日午後には発達して台風18号となり、その後西北西に進み、12日以後は、 昭和9年(1934)9月21日に室戸岬に上陸した室戸台風とほとんど同じような経路を 通って9月16日室戸岬に上陸し、その後、紀伊水道北部から大阪の西部を経て近畿地方の 西部を通過、日本海へ抜け、同日夜半には北海道に達した。 その最盛期には中心気圧、最大風速及び暴風半径とも記録的なものとなり、強さにおいて、
その足取りを追ってみますと 9月6日 マーシャル諸島東部に発生し西進
一方、14日には日本海側から前線が南下してきて瀬戸内海付近に達し、近畿地方や中部地方では、
15日朝「近畿地方に向う見込み」という台風情報第1号が大阪管区気象台から発表された。 15日 九州南部は朝から、四国南岸は昼頃から次第に暴風雨となった。 大阪湾では大小船舶2000余隻が完全退避した。
16日 9時過ぎには室戸岬の西を掠め本土に上陸、ほぼ一直線に北東進した。
大阪付近での中心気圧935mb
その後、この台風は日本海に抜け、能登半島東部を北北東に進み、16日青森西方、
この台風の近畿地方を襲った足並みは、 9月16日 12時淡路島南端に上陸、洲本の北で再び海上に出て大阪湾を北東進し、
この台風は昭和9年の室戸台風とコースが類似し、その規模及び強度もほぼ匹敵し、
最大風速33.3m、最大瞬間風速50.6mで、室戸台風に次ぎ、ジェーン台風を凌駕した。 高潮の状況 第二室戸台風は暴風と最低気圧の為、大阪湾沿岸に大きな高潮をもたらした。
このような記録的な高潮の為、特に西大阪の内陸河川には高潮による洪水が起こり、
第二室戸台風が、室戸、ジェーン台風と異なっていることは、府下の主要海岸および
一方、大阪市西部およびその周辺は、地下水汲み上げに原因する地盤沈下現象があり、
このため、防潮堤も年々沈下していた為高潮は、各所で防潮堤を乗り越え、
第二室戸台風で記録されている被害状況は 大阪市内の浸水戸数 9月16日20時において、床上浸水約61,000戸、床下浸水約47,000戸であった。 以上の資料は、大阪管区気象台より頂き、まとめたものであります。 歴史の流れ、その流れとは、その時代時代の人々と共に築かれたものであります。
|
第二室戸台風が、室戸、ジェーン台風と異なっていることは、府下の主要海岸および
大阪市内を走る河川や運河の岸に沿って、総延長124kmに及ぶ防潮堤が 昭和34年3月に竣工していたことである。 台風による浸水の被害は予想されていたので、もはや無用の長物となっていた立売堀川等は 昭和31年に埋め立てられている。 第二室戸台風の床上浸水の事は私も子供心に記憶がありますね。(^^ゞ |
ちょうど大正13年の春であった。 あれから60年あまり、その間台風や高潮にあったり 警防団に入って防空演習に参加したり、また社員の徴用や召集を見送っているうちに、 私自身にも召集令状が来て応召した。 朝鮮に入隊し中支を転々とし、転属になって上海の当時日本租界にあった十三軍司令部の
その前日に大阪第一回の大空襲があったのである。
十三軍司令部の暗号班に着くなり「おまえの国は何処か」と聞かれ「大阪です」と答えると
父からの便りで焼けたのを知ったのはそれから一週間くらいたってからであった。 ―終戦後の新町の出版事情― 終戦後、当時は増進堂受験研究社の社屋も家も新町一帯が大阪第一回の大空襲で
昭和21年ごろ焼け残った土蔵を改造して事務所にし、18坪のバラックを建てて
当時の新町は新しく建った家も少なく毎日高師浜から南海電車で通っていた。 当時、私の父政治は良く太っていたが元気で増進堂受験研究所の社長をしていた。
印刷所は、大阪では焼けた印刷機を修理してやっと印刷ができるようになった時で、
組版の初校がある程度出揃ったところでそれを持ち帰って、次回は紙型にしてもらって
大阪ではまだ製本所の復興したところはなく、用紙事情も統制が解かれ自由化に
当時は焼け残りの土蔵を事務所に改造し、その前に建てた平屋のバラックを倉庫にして
戦前からベストセラーであった富田常雄先生の「姿三四郎」も紙型が消失したので
その当時は小谷一三氏(現在の教学研究社社長で小生の叔父)はまだ増進堂受験研究社
小谷氏が新町を歩いているとき、偶然福井の郷里から大阪の様子を見に来ていた
小谷氏は高広氏から仕事をしたいので場所を探していると聞かされた。
しばらくたって高広製作所の機械が動き始めて、焼け野原のバラックの中から機械の
高広製本所の今は亡き先代の復興の最初の仕事は増進堂版のベストセラー「姿三四郎」
「姿三四郎」の製本が出来次第待っていた取次ぎや書店が先を争うように持ち帰った
道で出会ったのが縁で高広製本所の復興の糸口が新町になったことも不思議な運命の
その後現在に至るまで、当社の製本を一手に引き受けて頂き
―復興する新町の出版界― 西区は、大阪の中でも区画整理の最も遅れた地区であったので復興がおくれ、
昭和21年頃、土蔵を改造した事務所で私方増進堂受験研究社も仕事が始まっていた。 新町にあった大取次ぎの日本出版配給株式会社の大阪支店は統制会社が解体になって
私方のバラックを工場にして仕事をしていた高広製本所も軌道に乗って仕事は順調に
そのような時の有る日、「いつまでも高師浜から通わずに大阪に出てこないと時代に
私方も復興の仕事が軌道に乗るに連れて事務所も倉庫も手狭になった時であり、
このように新町で出版社も取次店も製本所も復興を始めたのである。
私は、あいたバラックの半分に床をはって畳を敷き、家内と娘と三人で寝泊りして
市内の公共の交通機関としては市電が走り、まだ電話も復興していない時で用事を
また、今はなくなったが問屋橋の下をながれる長堀川には鮒が住み、夏には近所の人が
しばらくして焼け跡にも電話が通じるようになり、
このように速い遅いの差はあったが、いろいろの面で新町も復興して生活の面でも
終戦後再び祖父母の好んだ新町に帰り仕事ができることを,又西六の皆様方のご支援、
現在父政治の始めた参考書の出版や高校英語の検定教科書の出版に復帰し、
これからも皆様方のご支援とご指導を頂きながら、地域社会の発展に少しでもお役に
明日の西六がより良い町に発展することを祈ります。
|
増進堂受験研究社・教学研究社・大阪屋
浪速筋を長掘通りから一本北の通りに面して盛業されております。 地図の和楽路屋社長(西六いまむかし編集者)日下福蔵様 堀江中学校でご子息と同級生でした。(^^ゞ |
![]() |
![]() |
![]() |
|
|
|
![]() |
||
|