武侠小説AD&Dオリエンタル(OA)セッティング

1.『江湖』

 武侠小説が日本語で読めるようになったのは近年の事であり、現在(99年6月中旬)金庸、古龍両氏の作品合わせて八作品が店頭でも観うけられるに過ぎないがここでは金庸と古龍(本来後一人梁羽生が入るべきだろうが全く読んでいないのでコメントできない。陳謝)といった件の武侠小説がAD&Dのオリエンタルセッティングにどの様に反映されるかを書いてみようと思う。AD&Dオリエンタルの設定は武士道が成立している事からも判る通り、どう見積もっても鎌倉時代より後世、KARA=TUA箱中の設定書には武家諸法度が登場していることから江戸時代を意識しているようである。で、我々は日本人であるから、このセッティングにおいて日本人型のキャラクターを遊ぶ事には何ら抵抗を持たないだろうと思われる。最近は有名小説家の原作を持つ良質な内容の時代劇がテレビで放映されている事もあるし、再放送されている二昔前の時代劇の怪しさは妙な解釈が加わって今からでは考えも付かないようなパワーに満ち溢れている。これらをバランス良くマスターが制御すれば充分に遊べるだろう。場合に依ってはヒストリカルキャンペーンも再現できるだろう。

 しかしながら、である。オリエンタルセッティングは日本だけを意識して作られたものであろうか。答えは否である。あくまでオリエンタルとは亜細亜一般を指したものであり、その中には当然亜細亜最大の中国が存在する。日本はその余りに特異な文化を持つが故にクローズアップされているに過ぎない。OAの設定を読んだ時何か違和感を感じなかっただろうか。何故武士が巾着切の技術を持っているというのか、と。何故東洋系魔術師の名前が「Wu Jen」なのかと。そういう事である。

 OAにおける武士の設定は名前こそ「武士」であるが実際その性格には武侠小説に多種存在する「(武)侠」と呼ばれる中原(中国)を舞台に活躍する武術に優れた自由人のそれも含まれてしまっている。中華における共通認識としては権力者は常に悪、叛徒は常に善というものがある。この手の階級闘争思想は中国武侠小説では当たり前のようなもので、日本の武士道とは決定的に違う。朝廷は常に民衆の敵だから、朝廷に荷担する立場の者も悪人ばかり、と云う事になる。日本とは違い、広大な中原では官権の力も僻地になれば成るほど弱くなり、官は中央の目の届かぬ事を楯に腐敗し治安は悪化して行く。そして世の中にはもう1つの世界が形成されてゆく事に成る。それが『江湖』である。

 「江湖」という武侠小説に存在する世界は「官」の世界つまり権力者の世界に相反する存在「野」、官の力の及ばぬ弱肉強食の世界である。江河湖海ありとあらゆる処に賊が存在し、時にはついこの間まで良民だった連中が飢饉を理由に賊になることも決して珍しくはなかった。賊はそれこそ「七人の侍」の野武士(のぶせり)の如く収穫期の村村を襲い、好き勝手な行動をとった。殺人火付、強姦に強奪、人を食う事すらあった。復讐を恐れる彼らは村を全滅させる事も厭わない。まさにAD&Dにおけるモンスターの役割を地で行っていた事になる。根本的に日本とは土壌が違うのである。人間の心は日本人の観点からは考えられないほど荒み、物欲私欲だけが増大して行く。だから、人々は強くなければならなくなる。或る者は幇会と呼ばれる相互扶助を目的とした組織を作り、ネットワークを構築し勢力の拡大を図り、又或る者は自身の功力を増大させる事によって更に高みを目指した。しかし後者はやはり圧倒的に少なかった事だろう。前者は時を経て現在ではK社会に姿を変えている。一般には中国マフィアと呼ばれているものに。

2.『武術』

 武侠小説中での江湖は架空世界でもあるが現実の中原世界の鏡でもある。つまりはフィクションにより味付けされた御伽噺の中原世界である。時代劇の中の江戸時代みたいなものだ。だから江湖の世界に生きるものは非現実性を帯びファンタジックな英雄へと変化する。元々「白髪三千丈」の表現を使うお国柄である。武術の達人は超人的な力を身に付ける事に成る。軽功を使えば上海雑技かそれ以上、内功を使えば毒も効かなくなる、そして外功に長けたものは素手で人間の頭蓋に指の数だけ穴を穿って殺す事が出来る等々。OAに於いてマーシャルアーツがべらぼうな強さを発揮するのはかのゲームを読んだ乃至は遊んだ人間ならば周知の事と思う。それらの威力の粗全ては武侠小説やそれを元にして作られた武侠映画を元にしているのは粗疑うべくもない。あのルールをそのまま使用する事に躊躇いを覚える御仁も中には居るかもしれないが西洋幻想小説における魔法魔剣の代りだとすればそう拒否反応を起こす必要もないだろう。只強い、と言うルールだけではなく、ちゃんと原作に当るものがあるだけイメージも沸きやすいと思うのだが。もしもOAのなかからそうしたファンタジックな要素を廃してしまったならばそれはFRPGであるAD&Dとは云えないものに成ってしまうだろう。只でさえOAは魔法が充実しているとは云えないしまた魔法の品もしかり。ゆえにそう云ったところ(マーシャルアーツ)でバランスどりしているのだろうと私は思うのである。其れだけに魔法の品々に関しては制限を課すほうがよりらしくなると思われる。

3.『武林』

江湖の世界と粗重なる様に存在しているのが武林の世界である。つまりは更に架空の度合いの増した武術家達の生きる世界である。江湖に生きる武侠達は大抵何らかの形で武林に関わりを持っており、特定流派の武術を使用する事になる。中国の武術は型を重要視し、その型を覚えさせると同時に内力を高めさせる修行をさせ、威力を高める。武侠小説中では型を見よう見真似で覚えたところで内力がなくては何の威力もないと云う事に成っており、型に合った修練法を行わない限り威力が高められる事は先ずない。よって武侠小説は「……派掌法」やら「七十二式追魂奪命剣」等日本人の我々にとっては奇天烈な必殺技みたいな名称を持つ型のオンパレードに成り得るのだ。彼らの剣・拳法は他人に真似されても威力のない事が判っている為か出し惜しみする事は滅多にない。金庸の『書剣恩仇録』には技の名前だけで立会いをシミュレートする場面が出てくるが、それ以外の作品においても武術の心得ある者が他人の戦う様を見て「あれは……派の『XXX』だ」等とのたまいその通りだったりするから、恐らく皆知識だけは色々な資料から仕入れているのだろう。何せ使う技とその人の功力の強さだけでそれが何者か凡そ判別が付いてしまう程である。迂闊な事をすれば江湖、武林中に悪評が立ってしまう。よって正派の武術の使い手は滅多に 悪事は働けない。世間に対してその武術の派の汚点となる事はしてはならないからだ。尤も他人に自分の凶行を見つからなければそれでよいと言う事もあるが。逆にそれらの手段を公然と使用する連中もあり、そうした集団は邪派とされて正派と対立している。この辺りは金庸の『笑傲江湖』に描かれている。

 OAでは彼等のような武林に属する者は何クラスに属するのか、と言うと少林派は「Monk」の一言で片付けられようが他のまでそうか、とは云い辛いものがある。妥当な所では武士クラスでマーシャルアーツを取り捲る、或いは剣聖クラスで同様の処理を行うと言うのがある。この場合剣聖の習得する武術は本来のルールで取得せねばならない「非戦闘的な技術Peaseful skills」の範疇にはされないと思うがいっその事そこは無視するか「マーシャルアーツは一般技能だ。何故ならば武器技術ではないからだ!」と強弁する方が望ましい(そうか?)。最も望ましいのはDragon139号で掲載されていた「Alternate Bushi/Kensai Classes」である。私が見た限りこれらのクラスが最も武侠小説の世界を再現するに相応しいものだろう。その理由の最大の理由は武侠小説には切っても切れない内功のルールの再現(ダメージの上昇、マーシャルアーツの攻撃回数の増加)が武士、剣聖のどちらにも適応されている事である。残念ながらこれらのルールは現在手軽に入手できるとは云い難く(TSRサイトにも未掲載)、99年9月に発売予定とされるDragon誌総集編を待たねばならないだろう。

4.『(金票)師』

 (金票)師…日本語ではひょうし、中国語ではBiao Shi、廣東語ではBiu siと読むがDragon誌ではPiao Shihと表記されていた…金偏に票と書いて顕すこの漢字は武器の名であり、Dragon誌ではダーツと訳されていたのでまあ、良く似た武器と考えていただきたい。(金票)を扱う事に長けた人物つまり(金票)師、或いは保(金票)と呼ばれる輩は危険極まりない旅行の護衛や貴重品の警備などを受け持つ、言わばボディガードやガードマンの事である。ホイットニー・ヒューストンの出演した映画「ボディガード」の中国語題名は保(金票)であった。彼らは賊の類と取引或いは戦いを行い任務…その保護対象がモノであれ人であれ…を全うしたという。云うまでもなく、この稼業は非常にハードなもので生半の人間には勤まらず結果として腕の立つ人間によって運営される事になる。そして彼らの構築したコネは代々受け継がれその信頼度も上昇する。中原ではよく見られたらしく武侠小説にも大抵其の名を冠する保(金票)の集まり「(金票)局」が登場する。(金票)局はその地方の有力者にコネがあるので幇会の連中とも顔見知りである事が殆どである。

 Dragon誌の164号にはこのNPCクラスが載せられており、その能力も小説のそれを参考にしているらしくやたらと強い。更に幻想世界用に能力が拡張されモンスターに対してすらナゴシエート出来るのだ。興味のある人はTSRのサイトのDragon誌の処を参照して頂きたい。

5.『Wu Jen?』

 OAをやる時点で?と思う事があのゲームを遊んだ乃至読んだ人ならば必ずあるだろう。その中で最たるものが中国語を語源とする一連の名詞である。Wu JenやKuei等、英語の表記による中国語の名詞ははっきり云ってしまうとゲーム以外では何の役にも立たない。というのは中国語のアルファベット表記は本来四声記号を母音上に付けたピンイン表記と云うもので顕されており、その方法以外で表記したところで我々日本人には解読不能なものでしかない。この日本で中国文化について英語で表記された書物など皆無に等しいからである。しかも、我々にとって恐ろしい事に、表記が北京語を基にしているかと思いきや、廣東語までその強引英語表記に使用されている節もある。これでは漢字にしようがない。この文章を読んでくださった人の中にはOAのへんてこ表記を日本語に訳そうと試みた人も居ると思われる。現在判っているAD&Dゲーム上に存在する中国語表現を漢字に直したものを以下に示す。英語表記>中国語>漢字の形になっている。

Deities & Demigods (L & L)
Shang-Ti = Shang Di = 上帝
Chao Kung Ming = Zhao Gong ming = 趙公明
Lei Kung = Lei Gong = 雷公
Fei Lien & Feng Po = Fei Lian & Feng Bo =飛廉、風伯
Chih Sung-Tzu = Chi Song zi = 赤松子
Huan Ti = Huang Di = 黄帝
Kuan Yin = Guan Yin = 観音
Yen-Wang-Yeh = Yan Wang Yie = 閻王爺
Wen Chung = Wen Zhong = 聞仲
Lu Yueh = Lu Yue = 呂岳(3/12追加)
No Cha = Na Zha = [ロ那][ロモ]、なたく(3/12追加)
Tou Mu = Dou Mu = 斗母(3/19追加)
Ma Yuan = Ma Yuan = 馬元(3/19追加)
Chung Kuel = Zhang Guo-Lau = 張果老(3/19追加)
Chih-Chiang Fyu-Ya = Qi-Qiang (or Qi-Jian) Lu-Ya = 七槍(或いは七箭)陸壓(3/19追加)
Shan Hai Ching = Shan Hai Jing = 山海經(7/15追加)*居眠り猫さんありがとう!

OA rulebook
Shou Lung = Shou Long = 収龍或いは受龍
T'u Lung = Tu Long = 土龍
Kuei = Gui (Guei廣東語) = 鬼(中国語では死霊を指す)
Hu Hsien = Hu Xian = 狐仙
Hsing-Sing = Xing xing = 猩猩
Chiang Lung = Jiang Long or Chuan Long = 江龍或いは川龍
Lung Wang = Long Wang = 龍王
T'ien Long = Tian Long = 天龍

Fiend Folio
Li Lung = Lu long or Di Long = 陸龍或いは地龍
Pan Lung = Pan Long = 盤龍
Shen Lung = Shen Long = 神龍
Yu Lung = Yu Long = 魚龍

……しかし其れでもWu Jenは判らない。有り得るものとしてはWu XianかWu Shanになり、ウェールズ表記だとWu renかも知れないと言う。漢字を当てると五仙、五顕、巫神、はたまた武人になる。この内二つを合わせて巫仙にするのが何となく「らしい」のだが、生憎と巫神・武人以外の表現は中国の「現代漢語詞典」にも載っていない為如何わしい。五行の力を操るから五仙にするのがいいか。我々の処では「道士」とか「陰陽師」とか「うぜん」とか定まっていないが、中華系のキャンペーンの時は道長(どうちょう)とするのが武侠小説風でかっこいい。

5.『中原武侠の倫理道徳』

 武侠小説や一連の中国関連の小説(封神演義もそうだが)を読んでいると彼ら当時の中国人(現在の、とも言えなくは無い)の道徳観念や善悪の意識について疑問に思う事が良くある。例えば『江湖の習』というものがある。『習』と云うからには、その事が一般的な常識で江湖世界で生きて行くには必要な事と云う意味をもつ。金庸の諸作品で主人公系、要は善側に属する人間も強奪やら殺人やらを何の躊躇いもなく行う場面が頻出するが、彼らは自分達がそうされる事を怒り、復讐を誓ったりするものの、自分達も同じ事を成すという点において非常に身勝手な印象を拭えない。あくまで自分本意なのだ。彼らの善悪公私の判断は日本人の我々から見れば非常に利己的にすら見える。中国伝統の『官権は悪、叛徒は善』『鼓腹撃壌』の考え方を見るに付け、やはり中華英雄はC-Gでないといけないのかなあと思わなくもない。こうして考えた場合、AD&Dにおいて彼らの一般的な性格を決定する場合は大概の場合においてChaoticとすることになる。彼らは『江湖の習』に従っているに過ぎない、故にLawfulであるとも考える事は出来る。しかしそれは「守るべき」義務や規律ではない。何となく皆がやっているが故に発生した盗山賊の共通認識だからである。一方武林に生きる剣客武侠はその武術流派の決まりを守る場合が殆どである。彼らは己の武門の誉れを尊び、一門の恥は何が何でも取り除こうとする。この事から、中華世界においてもOAのKensaiはそのまま使用する事が許されるだろう。『碧血剣』『笑傲江湖』で、武林は正派と邪派に分けられて互いに対立するという善悪対立の形式が用いられているが彼らの行いが必ずしも善悪を表している訳ではない事も御判りいただけるだろう。前述の二作品にも共通して『五毒教』という邪派集団が出てくるが、彼らは毒物の扱いに長じており、拳法に其れを加えて戦う為に忌み嫌われているが彼らの全てが完全な悪人として描かれている訳ではなく寧ろ正派の連中よりも愛嬌があり、主人公を助ける側に回っている。毒物を獲物に塗る方法は武侠小説では一般化しており、一概に悪と決め付ける訳にもいかない。毒物の使用はOAを含むAD&DにおいてThief系列以外は基本的には使用する事を制限されている。しかし、一般AD&Dとの差異を付ける為にも精神文化の違いという事でこの際、使用不可とされているクラス以外の、『DMの判断による』というクラスは毒の使用を許しても良いだろう。最も、同じOAであっても日本的なキャンペーンでは許されるべきではない。

6.『宝貝』

 世界初のSF小説として名高い『封神演義』の中には様々なマジックアイテム『宝貝』が仙人達(Demigods)の所持する秘密兵器として記され、我々を楽しませてくれる。その他、『西遊記』等でも様々なマジックアイテムが存在し伝奇世界に色取りを添えている。無論こう云った設定はゲームでも重宝され、使用されるべきである。前にも書いたがマジックアイテムが存在しないとゲームの性格が変ってしまうし(ヒストリカルならば話は別だが)、単純にゲームを楽しむ事が大前提とされるこのゲームの足を引っ張る事にも成りかねないからである。しかし、魔法無しのキャラクターの力が一般AD&Dのクラスより比較的高めに設定されているOAにおいて、マジックリッチな世界設定は必ずしもDMの許容範囲に合う訳でもない。OAの本に設定されているマジックアイテムの範囲を超えるような代物は出すべきではないだろう。『宝貝』が仙人によって作り出されるのであれば、それは定命の存在に使用されるべきではないアーチファクト、レリックの類に他ならないし、道士Wu JenがEnchant an Itemの呪文で作り出すにしても道士個人の秘密兵器としてのみ扱い、他人の為に作る事は制限されなければならない。何故ならば道士のALはChaoticに制限され、その秘密主義は道士間ですら徹底されるものだからである。

7.『Kara-Turで遊ぶ場合』

 AD&D用の公式世界でOAゲームをする場合、設定世界として与えられているのは『Kara-Tur』と呼ばれるフォーゴトンレルムの彼方にある1地域である。ここを舞台に武侠キャンペーン、或いは香港B(ボンクラ)級電影的キャンペーンをする場合、支那の設定は受龍Shou Lung国か土龍T'u Lung国の二つになる。2つの国は使用されている言葉が粗同じであるが説明文にある様に発音がかなり違っており、恐らく受龍国で使われているのが北京語(普通話)で土龍国では廣東語が使用されていると思われる(NPCの名前や土地名から判断した)。(尤も中国語と言うやつは漢字こそ共通すれど訛という一言では済まされないほど発音の違いが顕著であり、あくまで其の目安位でしかないのだが。)両国の違いは極端な言い方をすると、

受龍Shou Lung国:あくまでも幻想小説、伝奇小説レベルの伝統的中華王朝
土龍T'u Lung国:香港映画における怪しげな魔教集団(日月神教や白蓮教等)が天下を取った地域

…というものであろうか。魔教に関しては問題外なので、受龍Shou Lung国で遊ぶのが定石になるだろう。しかし…あの不思議極まりない無理やり中国語には耐えられない人(例えば筆者)は設定こそ使えど、キャラクターや土地の名前は全部変えた方が良いかもしれない。

8.『AD&D世界の儒教・道教』

 『Kara-Tur』の受龍Shou Lung国には二大宗教としてThe Path of Enlightment(儒教)とThe Way(道教)が存在している。儒教といっても其の教えが何故か小乗仏教の少林寺と合体している為、適当な訳語が見当たらないのが何だが。差し当ってここでは「儒教」とさせて頂く。儒教の総本山たる少林派は当然少林派の武功を当然の様に教えるがモンクにヒ首や刀剣と言った切断系の武器技術の伝授は成されず、寺院守護職の僧兵(No-Sheng、和尚=He Sengの誤記と思われる)にそれらの技は伝授されたという。少林派の僧は武器を使わず己の肉体こそが武器なのだ、と記述されている。
 もう一つが道教である。言うまでも無く道教とは中国の伝統的な宗教であり、超人思想が其の根底に流れている。其の為道教の僧侶はモンクや哲学者ではなく、多くはWu Jenや修験者(Dang-Ki。台湾で言うタンキー、口寄せ・シャーマンの類)である。道教においては宗教上の高位の人間が単なる僧よりも魔術の使い手になることも多々有り得る事である。道教には法も混沌も、善も悪も無い。有るのは物事には全て二面性(陰陽)が有る事、其の秘密を知る事で超自然力を操るのだ。南方の土龍T'u Lung国はこれに五行の思想が入り込み、左道邪術を更に高めている。
 さて、話題を武侠小説の話に戻そう。中原武林には二大名門正派として少林派と武当派が挙げられ、武当派と言うのは道教の集団である。この二大門派は一応宗教者と云う建前で、武林内部の争い、例えば笑傲江湖のようなものには直接介入する事は無い。なにせ坊主と道士である。修行するにしても俗世を離れている訳だし。この二大門派は近世においてライバル関係にあるとされているが、それは武当派(太極拳)の事を「内家拳」、少林派(少林拳)の事を「外家拳」と呼ぶようになった明末からの事らしい。これが決定的に広まったのは清代、乾隆帝の時代に武当派に命じて福建少林寺を焼き討ちにしたという伝説(書剣恩仇録にも出てくる)のせいである。武当派太極拳の武功は剣・拳法の両方に優れ、現在にも受け継がれている。この二大門派のライバル関係の設定をどう使うかにおいても非常に魅力的な設定を作る事ができるだろう。

8.『OA世界の金銭』(Isomecさんリクエストどうも)

 云うまでもない事だがOAの貨幣の名前はかなり出鱈目が入っている。どうも中国貨幣(人民幣)のそれを利用している様なのだが…なんか変である。因みに、第五章と同じ表記でOAの貨幣を漢字にしてみると…

Fen = Fen = 分
Yuan = Yuan = 圓(元)
Ch'ao = Jiao = 角
Tael = Tiao = 条…かなり苦しい。中国語で棒状のものを「条」の量詞で計算する事からこう判断した。
Ch'ien = Qian = 銭或いは仟(千)

 現実現在の中国貨幣において、人民「元」という表記の単位は実際には存在しない。向こうでの最大単位で使用される、所謂一元と云うものの表記は『壹圓』、即ち日本の「円」の難しい方の表記「圓」と同じである。中国の一元は一圓=十角=百分という単位で顕されるのだが、これだとOAの単位の順番も怪しい。尤らしい説明がOAではなされているものの、実際はこれらの貨幣単位はOA用に作り出された単位の様である。
 因みに、OAに於いてKoku(石)という単位がある事で、江戸時代の貨幣単位を凡そ判別する事が出来る。OAをやる時、江戸時代風のキャンペーンをするに当り、一石(koku)が5ch'ienである事から、

一石=一両=四分=十六朱=四貫(約4000)文

 これを利用するのも一つの手である。尤も、却って煩雑になるだけだからインチキ単位(例えば一石を4ch'ianに設定しなおす事で一分=1ch'ien、一朱=1tael=1ch'ao、一文=1fenにするとか。今の人で上記の計算法を知っているのは非常に少ない筈だ)を捏造するのも悪くないかも。
 

9.『幇会とヤクザ』

   『江湖』のカラムでも少々述べたが、幇会(ほうかい)と呼ばれる物はマフィア、ヤクザの類を示す言葉である。武林世界の門派が『師父』『師祖父』といった呼び名にも見られる通り、擬似的父子関係を中心とするのに対し、幇会は義兄弟の血盟を中心として横広がりの構造を持っている。その起源は宋代の武術団体を基とする武術門派のそれよりも古く、遥か漢代にまで遡る事が出来る。こう云った義兄弟関係は三国志演義や水滸伝、西遊記といった御馴染みの中国作品に見受けられるが、更に発展して門派型の擬似家族的性質を持つようになったのは旧派の武侠小説(1930年代に勃興された武侠小説群。代表的なものでは『蜀山剣侠伝(映画「蜀山奇傳 天空の剣」の原作)』)以降の事である。『幇』とは中国語で助ける、援助するの意味であり、日本語では『幇助』等でその使用例を確認する事が出来る。幇会は元来同業や同郷の相互扶助を目的とした組織で、AD&Dではシーフギルドや商人ギルドがそうあり、OAのヤクザ組織もこの範疇に収まる事になる。

 ヤクザはシーフの系統に属するクラスであるが、そのアラインメントはLawfulに制限される。組織の規律は絶対的な物で、違反者には情け容赦の無い仕打ちが加えられる。かといってD&DにおけるLawfulとChaoticとAD&Dのそれはニュアンスが全然違っており、ヤクザの全てが清水の次郎長一家の人達みたいな訳ではなく、それこそ堅気の人々にたかる寄生虫の様な存在である事の方が遥かに多い。
 幇会に属したキャラクターが大活躍するのは金庸の『書剣恩仇録』であるが、その構成員は武術門派に属するものも見受けられ、門派の繋がりを超越した集団と言える事が出来る。彼ら反清復明を掲げる秘密結社『紅花會』の大幹部は全て武術の使い手(クラスに関わり無く高レベルのマーシャルアーツ使い)で、各々の武功は中国的大袈裟表現によってファンタシー世界の戦士と何ら遜色無い強さを誇る。こう云った背景から鑑みると、武侠小説型のキャンペーンを展開させる場合、ヤクザ組織とは別に秘密結社としての集団を形成し、その中にヤクザ的要素(義兄弟の血盟を中心として横広がりの構造)を絡ませた方がやり易いかも知れない。何号か前のDragonでは秘密結社の例が幾つか紹介されていたが、その辺りの考え方を取り入れるのも面白いだろう。

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