書剣恩仇録〔全4巻〕
作品解説:中国清王朝で名帝と称えられる乾隆帝は実は漢民族の人間であった。と云う伝説を基に、架空の幇会「紅花會」の英雄達並びに身体から得も云えぬ香りを漂わせると言う美女、香妃の伝説と絡めて物語は創られている。作者の故郷、浙江省海寧県にはその伝説が存在し、彼は故郷を思い起こしつつこの作品を書き上げたのだろう。当作品は金庸の第1作でこの作品の中に以後の金庸作品での特徴が全て語られていると言っても過言ではない。つまり、得体の知れない拳法、武侠達の友情・矜持、どうしようもない運命の流れ、物語の根幹を成す何かしらの謎と云ったものが詰め込み過ぎか、と思われる程にこの物語には抛り込まれている。金庸を読むには先ずこの作品から…とは私は思わない。理由はこの作品の導入部分が結構読み辛いからである。作者は新聞連載の中恐らくどの様に話を展開させて行けば良いのか判っていなかったのだろう。どうせ読むならば後期の作品である『侠客行』から読んだ方がずっと良いと思う。しかし、日本人である我々が清朝の歴史を垣間見る事が出来ると言う点ではこの作品は良い、といえる。読むか読まぬかは貴方の自由だが、この作品から読むことが出来れば他の金庸作品を読むのに苦労はしないだろう。
お気に入りのキャラクター:「火手判官」張召重。彼は武当派〔太極拳〕の使い手でありながら朝廷に仕え、反清復明を掲げる紅花會の主人公陳家洛(乾隆帝の弟)達と事ある毎に対立する強敵である。武侠物と言われる小説のお約束の一つに現政府は必ず悪であり、武侠はそれに反抗するという図式が存在するが、これはお隣の国の歴史が、王朝があっても人々は其れに対して何の忠誠も持っていないと云う独特の経過を持っているが故である。というのは余りにも領土が広すぎる為に政府の管理が行き届かず、治安の悪さは当時の日本と比べ様も無く悪く、江湖には盗賊・山賊の類が跋扈していたが役人はそれらの簒奪者と何ら変らぬと言う考えが向こうにはあった。つまり、朝廷に使える存在イコール悪人と言う訳である。役人は貧しい人々から奪った金銭で私服を肥やしていると断言できるほどに武侠物の世界では酷い扱いを受けている。実際、彼等もその形容に相応しい悪人揃いなのも事実であるが。一方で江湖の習と云うものもやくざの其れと何ら変らず、武侠と呼ばれる類も実際は山賊と何処が違うのか私には判断しかねる表現がある。金庸の作品中にはしばしば江湖の習いとして金持ちから如何に盗んでも構わない、盗んだ宝を他人に見られたら分け合う等という、盗まれた人間にしたらたまった物ではない掟が堂々と罷り通っている。これを時代精神の反映と考えた場合、如何にお隣の国の事情がロクでもなかったかという事を此れ程までに証明するものは無いのである。嘗て日本人の誰かがあの国の人間の心は悪いとのたまったがその通りだったのだろう。其れは兎も角。張召重は己の立身出世の為に嘗ての兄弟弟子も裏切り暗殺し、勝負に勝つ為にはどんな卑怯な手も辞さないという悪漢に描かれているが、これが強い。まともに戦っても主人公達を遥かに凌ぐ使い手である事に加え、卑怯な方法も取る事が出来るのだ。結局彼は物語後半で謎の拳法を身に付けた陳家洛に敗れ挙句に餓狼の群れに叩き込まれると言う悲惨極まりない最後を迎える事になる。この最期の時も情にほだされた兄弟子陸菲青が共に死のうと餓狼の群れに飛び込んだ時『お前も死ね』と自分が狼に噛まれる事も辞さず陸菲青を捕まえると云う往生際の悪さを見せ付けた。ここまでやれば悪人冥利に尽きると言うものであろう。
こんな所にも紅花會