雪山飛狐〔全1巻〕

時代は清代、乾隆帝の治世も半ばの時期。とある事から同行した武林の人間が立ち寄った深山の山荘。そこで彼らは一人の剣客の名を聞く事になる。その名は雪山飛狐。凄腕の剣士でこの山荘の主はその男と一戦構える為に「打遍天下無敵手」の異名を持つ苗人鳳を始めとする江湖の強者を集めているのだ。しかし、主が外出している間に彼らは山荘に閉じ込められ、逃げられない事を知りうろたえる。彼らは何故こんな事になったのか、何故雪山飛狐こと胡斐が斯様な手段を取るに至ったのか死ぬ前に理由もなく殺されるよりその訳を知りたいと考え、それぞれが知る断片的な過去の話を話し始めるのだった。そしてそこから導き出された真実とは、明朝を潰す切っ掛けとなった李自成の死の真相と、そこから100年に渡る4つの家に繋がる因縁だった。

99年の2月に漸く刊行された金庸作品第5弾。中国の金庸全集では「鴛鴦刀」「白馬嘯西風」と併せて一冊の本になっている。日本語版の初版本の帯に「敗死した李自成の怨念が、百年後の子孫らを翻弄する!大迫力のサスペンス・ロマン。」とあるが、「大迫力のサスペンス・ロマン。」は判るが「敗死した李自成の怨念が、百年後の子孫らを翻弄する!」は大間違いである。別に李自成本人の怨念ではない。正確に言うと李自成の護衛4人に纏わる怨念の歴史である。登場人物が己の知る話の断片を次々に語って行く件が非常に面白い。物語は当然個人の主観や誤魔化しが入る為その人間だけの話では誤りがある。その部分を訂正する形で物語が別人に引き継がれ、次々に読者の前に真実が明らかにされてゆくと云う趣向である。黒澤明の映画「羅生門」を見た人間ならば判るだろう。丁度あんな形である。その過程において個人の暗黒部分や隠したい部分が露呈して行き、そして武林の侠客たる者が段々本性が判るに従い当初慇懃だった言葉遣いが汚くなって行く。中国語ではないこの辺の微妙なニュアンスが日本語版では表現されており原文より判りやすい。名訳と言えよう。この話は登場人物同士のバラし合いが最大の見せ場であるせいか、キャラクターの描写については今一つ浅いという印象が拭えないが印象に残る作品で或る事には代りはない。時代設定的には「書剣恩仇録」の時期から更に未来の話であり、この話の中では彼ら紅花会の英雄について言及されていないが主人公?許斐が実は紅花会の人間と顔見知りで幼い頃彼らから武術を学んだ等の新設定が「飛狐外伝」で明らかにされている。

戻る