碧血剣〔全三巻〕

闖王李自成が腐敗した明朝を滅ぼす為に立ち上がった頃を題材とした伝奇小説。国家の滅亡を主軸にその時代を生きた主人公達英傑の戦いと恩讐を描く。時代は明末、崇禎皇帝に処刑された将軍袁崇煥が一子、袁承志は父母の仇を討つべく幼くして崋山派に入門する。その成長の過程においてふとした切っ掛けから伝説の江湖の奇侠、金蛇老君の異名を持つ夏雪宜の死体を発見、その秘術を記した「金蛇秘笈」を入手する。それらを習得した袁承志は闖王李自成に協力し父母の仇、昏君崇禎皇帝と中原制覇を企てる女真族ホンタイジの暗殺を実行せんとするが、その過程で彼の見たものは、権力を手にした人間の浅ましい有様だった。人が権力を持つと言う事は斯様なものだったのか。李自成達も明朝も根本的な部分では何も変わらぬ事を目の当たりにした彼は……

 金庸武侠小説第二作目。しょっぱなから明末の治安が乱れまくった様が何とも世紀末な雰囲気を醸し出している。淡々とした書き方はその有様が当たり前で或る事を顕しており、余計に怖い。江湖の英雄と自称する輩も強姦殺人を「男が口に出せないような事じゃない」等と平気で口に出せるような下司が連発する。今の所邦訳された金庸小説で一番「現実に近い中国」を顕していると言っても良いだろう。官権は悪、反乱軍は善、の構造がここでも見受けられる。そして、権力を握ってしまえば今度は反乱者側が官権と云う事になり、悪側になる。すると暫くして又反乱が起こる。この階級闘争史が延々と繰り返される、それが中国と我々が呼ぶ大陸のある部分の紛れも無い歴史なのだ。言わば、白土三平の忍者武芸帖の様な世界である。ここを舞台として主人公袁承志は江湖世界と闖王の反乱軍、両方の世界に跨って冒険する事になる。そして彼の冒険に多大な影響を与える事になるのが金蛇老君夏雪宜である。夏雪宜は蛇に因んだ武器を好んで使用した一代の剣客でその性格は陰険にして狡猾、殺人強姦を厭わぬが弱者を助ける事もあるという善とも悪とも呼べない人物であると評されている。が私から言わしていただければ立派な悪人である。いくら父母姐を殺されたと言っても、仇の一族郎党50+10人に累を及ぼそうという復讐の仕方はもはや正気の沙汰ではない。彼は復讐と言う名を借りて殺人を繰り返す狂人である。しかもそのやり方が計画的で唯闇雲に殺して行くと言うものではなく、相手が警戒厳重な時はじっと時を待ち緩んだ所で再び凶行に及ぶという、まことに陰険且つ冷静なやり方で。そればかりか復讐への段階を踏んでいる最中でも夏雪宜は色々な所で事件を引き起こしており、袁承志はなまじ彼の秘伝を受け継いでしまったが為にそれらの因縁に片端から関わる事になってしまう。そんな事をしていたものだから死に方も碌な物ではなかった。眠り薬を盛られ、手足の筋を切られやっとの事逃げ出したものの最早自分には廃人としての人生しか残らず、未来に自分の復讐を果たす者が現れる事を信じて「金蛇秘笈」を記して孤独に世を去ったのだ。あまつさえ死んで尚「金蛇秘笈」を後世の人間に渡すにしても、自分の死体の扱いを軽んじる者には毒矢の罠まで仕掛けておくのである。何処に善人らしい所があるというのか。何か死んで当たり前の様な気もするがこの物語の中では話が進むに連れてだんだん「良い面」が見出されていき、読者は何時しか金蛇老君と言う男への興味に捕らえられてしまうのだ。この辺りの演出は「笑傲江湖」等、以降の作品に伝えられる事になる。夏雪宜について一番気に入っているのは想いを寄せた温家の娘、儀に対して自分が死に臨むに当って書き記した一文である。

(たとえ天下の財宝を集めたとて、どうして半日の逢瀬にかえられようか。財宝を重んじて別離を軽んじる、ああ、愚の極みなり!今や悔恨あるのみ!:小島早依 訳)
この文が無ければ誰も金蛇老君を気に入る事は無かっただろう。この文にこそ、彼の秘められたまともな部分が記されているのである。ここから、金蛇老君と言う人物への興味が始まるのだ。

お気に入りのキャラクター:黄真。金庸の作品の特色と言っても良いが相変わらず主人公よりも脇を固める連中の方が魅力的で読んでいて楽しい。別名銅筆鉄算盤と呼ばれるこの崋山派穆人清の第一高弟は武器として右手に柄が黄銅で出来た筆(判官筆と同じ様に点穴に使用する)、左手に鉄で出来た算盤(棍として)を使う。戦いの場においても不似合いな商売口上の形で互いを比べ、やれこの取引は分が良い悪いだの何だのとお喋りを止めず、敵を煙に巻いてしまう。

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