精武門の呉廷燁・その２

呉廷燁鑑賞記（『精武門』・続き）

武田由美（萬二蚊飾）、石井英明（林志豪飾）、陳真（甄子丹飾）

第九回

　父親と喧嘩した挙句に家を飛び出し、陳真の所に転がり込んだ由美。
　其れを聞いて武田家に来た英明に武田は『儂は貴様に由美をやると言ったが陳真にやるとは言ってはおらん。奴は中国人の只の人力車引きで、由美にとっては何も幸せにもならん！今の中国と日本の関係ははっきりしている。貴様は由美を愛していながら陳真に与えてしまった。貴様など日本人ではない！この根性無しが！』と怒りを露にして八つ当たりする。どうしようもなくなって陳真に彼女の身体の事を話し、帰してやってくれと頼む英明だったが、陳真にしてもそんな話を聞くわけがない。
『由美さんに関しては僕に責任がある。だから…僕は君と決闘して彼女を取り戻す！』と告げる英明。しかし、決闘は由美と日本軍の乱入で中止され、陳真は小銃の握りによる一撃で昏倒させられてしまう。
　武田は尚も家を出ようとする由美に向かって『お前が家を出るというのならば、陳真を殺す！』と脅し、彼女は其のショックから心臓病の発作を起こして倒れてしまう。由美を取り戻そうと武田家にやってきた陳真は、其処で彼女の母に事情を聞かされ、由美の事を愛しているのならば、彼女の為にも身を引いて欲しいと懇願され、仕方なく身を引く決意をする。　其の頃、武田の荷を預かっていた蔡學富が其の荷を検めていると、其の中から日本軍が使っている筈のないモーゼル銃（笑）が！『あんたの荷だ。知らん筈はなかろう？』と告げる蔡學富。彼はその事を公表しない代りに代金を三倍にする事を持ちかけ、武田はしぶしぶ承知する。これで儲けが増えると喜んだ學富だったが、蔡老板は烈火の如く怒り、『日本人の荷を俺の港には上げさせんと言った筈だ！それを…貴様は漢奸、東洋鬼子の走狗だ！』となじられ、上海を出るか、自分に殺されるか二択を息子に迫った。そして學富の選択は、父親と決別し成り代わると言う物だった！
　蔡學富は父親に重傷を負わせるだけに留まらず、蔡老板を庇った梁蝦をも死に追いやってしまう。あまつさえその墓までも暴き無茶苦茶にした蔡學富に対し、ついに陳真の怒りは爆発した！

　この巻の大半も日本語版精武門に収録されているので、あんまり書く事がない…と思われるだろうが、実際書く事は多かったりする。先ず、主人公から。陳真と英明の初対決、そのシーンが『天地大乱』での黄飛鴻と納蘭元述の闘いのラスト、納蘭元述の布棍を黄飛鴻が割れた竹を使って切り裂き、遂には納蘭元述の頚動脈を切るあの場面のオマージュであり（英明の場合、竹が手刀になっている）、またファンにとっては嬉しい事に『精武門』ではちゃんと対処している（布を途中で捻って手刀の方向を変えさせた）のである。…余程『天地大乱』のあのオチが気になってたんだろうな。
　だが、今回の売りは何と言っても梁蝦の死とそれに関わる蔡學富の暴走振りであろう。綺翹と蔡老板の二人を助けようと飛び込んだ（両手が使えないにせよ）梁蝦をまともに戦って返り討ちにし、蔡老板を崖下に叩き落すわ、毒を食らわば皿までとばかりダイナマイトやら火矢やら持ち出して未だ生きてた父親に止めを刺そうと狙うわ（その表情がとっても楽しそう）と大活躍。後少しの所で陳真が乱入しなければ全滅できたのにねえ。この時陳真が何故か其処に落ちていた蛍光緑色のビニールの網を使い梁蝦と協力して蔡學富らを絡めとるシーンが爆笑を誘う。
　梁蝦と綺翹、蔡老板の三角関係は梁蝦の死を以って漸く解決。梁蝦は綺翹の歌を聴きながらゆっくりと死んで行くが、今際の際ですら時にもあくまでもいい人であり続けようとする梁蝦の態度には泣かせる物がある。蔡老板は彼の墓の前で、『恩は返してもらった。もうお前の好きにするが良い』と綺翹に告げ、とぼとぼと去る彼を見て、蔡老板には自分が必要なのだと悟った彼女は心から蔡老板の傍にいる事を決心する。…いい女だ。綺翹。同じ様な事をしている割に、武田由美の其れがとんでもなく極悪に見えるのは何故だろう…
　さて、蔡學富ネタでもう一つ。梁蝦を撃ったあの修羅場から逃げ果せた蔡學富は武田に庇護してもらって居たが、彼はここで只単に中国人として庇護される事よりも、自分が他人に頼らず生きる為に『俺は日本人になりたいんだ』と武田に告げるシーンが凄い。ここまできっぱりと民族を捨てられる彼の決意には感嘆するしかない。『もう俺は彼（蔡老板）の息子ではない。関係ないさ』彼はそうして『犬養學富』を名乗る事に。…ここでクソ日本人・金魚の糞（名前が聞き取れないので仮名）に『狗』だよ、と厭味を言われるのだが、これは蛇足と言う物だろう。日本人の「氏」と中国人の「姓」とは違う（中国人の姓は嘗て皇帝によって授けられた物）のだが、その辺りが理解されてないようだ。『狗』と『犬』はニュアンスが必ずしも一致してる訳でもないし。

第十回

　英国人の助けを借りた農勁孫（馮國）の助けで陳真救出に成功した霍元甲。だがその為に陳真は上海を離れる事に。
　同じ頃、英明が兄の敗北の知らせを受けて急遽天津から上海に帰還する。英明の目前で、弘は陳真に勝利する事と、空手道が世界一との証明する事を託して切腹した。兄を廃人にし、切腹に追い込んだ陳真を討つ為に英明は黑龍會に参加を決意。その背中に黑龍の刺青を施すのだった。もう彼に後戻りは出来なかった。
　しかし、そんな彼の直向さを武田は黑龍會の陰謀に利用する。上海における偏狭な民族主義屋の台頭と破壊活動に業を煮やした彼は、黑龍會暗躍の為に石井弘の死を巧みに利用し英明を霍元甲に挑戦させ、その機に乗じて霍元甲を抹殺しようと企んだのである。
　その事に薄々気が付きながらも、霍元甲を闘いの場に引き摺り出すべく各流派に赴き、その責任者を次々に撃破しては『東亞病夫』の看板に彼らの署名を集めると言う行動に出る英明。その表情は最早氷の様に冷たいものになっていたが、内心では自分が霍元甲に及ばぬ事をとうに理解しており、彼は決戦の日取りが決まった後、たった一人で霍元甲を訪ねる。英明は武田の与えるプレッシャーに悩み、そして生死を分かつ決闘で自分が恐らく死ぬという事への恐怖を感じ、敢えて同じ立場に身を置く敵対者である霍元甲に話を聞いてもらうしかなかったのである。彼には、最早同胞である日本人にすら頼る事が出来なくなっていたのである。『自分は死ぬ事が怖い』と正直に洩らす英明。この闘いが公正な物でないらしい事、それは彼の武術家としての誇りを傷付け、そしてまともに戦えば霍元甲に自分が敗れる事を予期しての言葉だった。
　彼は兄、そして武田達黑龍會の為に闘い、死ななければならない事に疑問を感じていたのだ。そんな英明に霍元甲も自分も死ぬのは怖い、だがそれでもやらねばならぬと告げる。

　英明『私は貴方と敵ではなく、友人でありたかった』
　霍元甲『私達は敵でもあり、友人でもある』

　英明は霍元甲と酒を酌み交わす。もうこの様に酒を酌み交わす日々は永遠に来ないのだ。
　そんな彼らの純真さを嘲笑うかのように武田の陰謀は着々と進む…

　陳真が上海から追い出されて（笑）、この巻は英明と霍元甲の二人舞台に。互いが決闘に向けて心を決めて行く様子や、霍元甲の死の暗示が物語を嫌が応にも盛り上げる（英明の『東亞病夫』看板作成行脚は笑えるが）。特に二人が海岸で酒を酌み交わすシーンはこのドラマの中でも屈指の美しいシーンだろう（英明こと林志豪の端正な顔がこれでもかと出てくる）。　日本語版の精武門では霍元甲と英明との闘いに至る経緯がネガティブな物に終始した編集しかなされていない為に、この石井英明というキャラクターについて相当に誤解があると思われるのが残念である。
　武田幸雄が段々とその残酷にして差別主義者としての本性を現して行く様も良く出来ている（あんまり喜ばしい事でもないのだが）。英明が霍元甲との決闘が決まった物の、自分の意思（彼自身は兄の仇を討ちたいだけである）とは関わらず、黑龍會の為に霍元甲と闘わねばならない事に疑問を抱き、武田に質問する。

　英明『私は霍元甲に勝てるとは思いません。ですが私は正々堂々と戦いたい。この決闘は公正な物でしょうか。』
　幸雄『…』
　英明『どうして答えてくれないのですか』
　幸雄『もし世界が公平なら、天が下等な民族に優秀な民族相手にして勝たせる訳がない！』

…ととんでもない答えを返す。これがあの霍元甲の喘息の薬に日本軍最新の研究成果である？無味無臭の毒物を盛る事に繋がる訳である。冷静に考えれば、たかが一介のカリスマ武術家である霍元甲に対してそこまで拘る事その物が、黑龍會の組織としての矮小さを示す事に他ならないのだがここまで来ると笑うしかない。…で、どーでもいいけれど、黑龍會の刺青、日本では最も恥ずかしいタイプのやつ（単色で大雑把）で悲しい。日本の刺青は芸術レベルまで高められてるのに。あのせいで黑龍會が余計に情けなく見える…。　今回、陳真は英明との決闘後、牢獄へ。由美の容態悪化の知らせを聞いて、由美に会おうとして官憲に捕まったと一言あるのみ。これが日本語版で抜けていた為に、下巻冒頭で陳真が牢獄にいる理由がさっぱり判らなくなっている。…あと、霍元甲が決闘当日に籠の鳥と列強に雁字搦めにされる支那を重ね合わせて逃がしてやるのだが、これが下巻であった、牢獄にいる陳真の所にまるでイメージシーンのような扱いで現れる鳥である。…日本語版の編集きついなあ。

第十一回

　毒を受けて体がもう動かなくなっているにも関わらず必死で戦う霍元甲だったが、ついに英明の手によって致命傷を受けてしまう。最後の力を振り絞り英明を場外に吹き飛ばし、彼は『振興中華』の旗指物を投げて日章旗を落とし、更に『我武維揚』の旗指物を支えにして立ち往生する。彼は生死戦という試合では敗れたものの完全に勝負では勝利したのである。
　そして葬式当日、蔡老板の計らいによって釈放された陳真は、埋葬が終わりかけた頃に到着する。彼は一時錯乱したものの、落ち着きを取り戻して霍元甲の死に疑問を抱いてその遺体を医者に検分させ、ついに霍元甲が毒殺された事を確認した（この間に初七日の法事に蔡學富が『東亞病夫』の看板を持ってくる。その時点では霍元甲を慮ってぎりぎり怒りを抑えこんだ陳真だったが、次の日に殴り込み。そこで名台詞『我ﾛ地中国人唔係東亞病夫！』が炸裂）。
　そして…英明は毒殺のニュースを知って血相変えて武田の所に飛んで行った。英明は例え負けるにせよ、己の武術を背負って存分に闘いたかったのである。しかし、彼の願いは正に粉々にされてしまった。『こんな卑怯な手を使ってまで！』と非難する英明に向かって、武田は英明を個人の代表ではなく大和民族の代表であり、その敗北の影響は他の日本人にも及ぶのだと嘯く。武田は更に、英明が何を思っているかも受けた辛さも儂には判ると言い、それでも己の為す事は一重に民族の為であり、個人を省みる事は出来ない、と云い切ったのである。英明は只黙ってその場から去る事しか出来なかった。
　そして、同じ頃。犬養（蔡學富）は親である蔡老板を罠に掛け、牢獄に放り込んでいた。彼は自分を捨てた父親を許せず、父の持っていた港湾の利権を奪っただけでなく、更に殺人の嫌疑まで擦り付けて牢獄での獄死を図ったのである。だが、牢獄で學富は、父親に日本人が霍元甲毒殺の犯人である事を洩らしてしまい、直接手を下さざるを得なくなるのだった…

　ついに大師兄・劉振聲が復活。霍元甲毒殺の実行犯が判ってから、すぐに裏切り者は蔡老板の手の者に発見され、監禁状態に置かれた。だが裏切り者は謎の人物によって殺害されてしまう。そう、この謎の人物として胡散臭さを振りまきつつ出てくるのが『帰ってきた大師兄』なのである。彼はその後けろりとして精武門にて霊前に跪くわ『精武門を離れた間に師父と二度と遭えなくなるとは思わなかった…戻るのが遅すぎた…師父！』陳真と墓参りするわ、そこで復讐を言い出す弟子らに向かい、『今は仇討ちではなく、精武門のこれからを考える時だ。師父の言葉を覚えているか。それは…我々中国人が武術を以って自らを鍛える事だ！（以武自強！）』とぶち上げるわと、確かに成長して帰ってきたようだ。しかし彼の帰還には訳があり、その真実が明かされるのは又後の話である。今回はその為の顔見世のような物だ。
　犬養學富と化した蔡學富は相変わらずハイテンションな悪役振り。牢獄に自ら父親をぶち込んでおいて蔡老板に向かって『あんたに機会をやろう。共に犬養の姓を名乗る気はないかね』とやらかし、蔡老板が断る（こんな事言い出す蔡學富も大概だ）と、『あの女と寝たよ。あんたが何故あんな女が良いのかずっと判らなかったんだが…だけど昨日の晩漸く判ったよ。成る程あんなに…』と告げる（真実か嘘かは不明）。この時まで蔡老板は息子の顔もまともに見ていなかったのだがここで完全に怒る。ここまで挑発する學富の精神状態は、父親に構って欲しいという願望の現れだと思われる。自分を認めて欲しい、只それだけの為に生きてきた彼が父親に見捨てられたのである。彼の絶望と怒りは計り知れない。自分で自分の感情がコントロールできないから切れてしまう。そんな印象を抱かせる。判りやすくて良いキャラクターである。

廣東語版第二十一話における大師兄の活躍（2001.03.14追加）
　所謂『金装版』は編集ものであるが、当然カットされたシーンは幾つも存在する。大師兄・劉振聲が帰ってきた後に精武門の二代目掌門を皆から推挙され受けるシーンの後に、武術総会の白鶴門の掌門・方蓋天（[火韋]烈）が日本の貨物に火を付けて回ろうと持ち掛けるが大師兄は盛り上がりかけた場を静めて『そんな事をした所で何にもならない。我々の敵は日本だけではない。中国人が一つに（当時の軍閥や匪賊の跋扈した状況を指す）ならなければ。今は行動すべき時ではない』とぶち上げる。結局方は独断先行の結果武田らに捉まってしまい、大師兄が総会の人間と共に虹口道場に出向き方達の釈放を嘆願する。この時、武田が『条件が飲めねば指を詰めてもらおうか』と脇差を投げてよこし、神聖な筈の道場の畳の上で小指を詰めようとする大師兄の勇姿が見る事が出来る。この時の彼の演技が余りにカッコ良いので却って笑いを禁じえない。…黑龍會がヤクザだったとは知らなんだ。
　尚、カットされていたシーンの中に二十一ヶ条の要求により割譲された山東省を返せというデモ行進があり、その時に1919年に二十一ヶ条の要求がどうたらこうたらと言うテロップが流れる。この事から時代設定は1919年以降らしい事が判る。『二十一ヶ条の要求』は1915年、それに日本が譲渡されたのは山東省ではなく山東省における『ドイツの権益』だろうに。そもそもドイツが一方的に持っていた権益については何も語らずにドラマの中で只管日本を悪玉に持ってゆこうとするのは白人への劣等感の裏返しか？皆さん騙されちゃいけませんぜ。

第十二回

『敵は武田ではなく、日本其の物なのだ』
　蔡老板はそう云って、国家に対抗するには個人の力だけではどうにもならない事を陳真に教え、蔡金虎と共にほとぼりが冷めるまで旅に出た。陳真は今は時期を待つ事だ、と自分に言い聞かせ、武田自らが『霍元甲毒殺の黒幕は私だ』と告白してもその場で手を出す事を我慢する。
　もし彼が武田に手を出してしまえば、その事を切っ掛けに日本が中国に戦争を仕掛けるだろう事を見抜いたのである。
　だが、彼の周りはそうならなかった。自責の念から首を括ろうとした三師兄・葉大昌の心を慰める為に陳真は真犯人が武田である事を話した所、四師姐・馬小清がその事に我慢できずたった一人で暗殺の機会を狙い精武門を出てしまったのだ。武田を付狙う馬小清。しかし、彼女は其処で信じられない光景を目にする。
　それは、武田に向かって深深と一礼する劉振聲の姿だった。怒りに身を任せ剣を引き抜く馬小清を劉振聲が当初相手をするが、時間の掛かる事を案じた武田が割り込み木刀の一撃で彼女の脳天を砕いてしまう。
　彼女がもう長くはない事を悟った劉振聲は、自らの手で止めを刺した。彼らの他には誰も目撃者はいない。彼女の死は闇に葬られようとしていた。
　しかし、彼女の手には最初に遣り合った時に毟り取った劉振聲の左袖のボタンが握られていたのである。それを知った陳真は…

　ついに劉振聲最大の見せ場が！彼の演技の確かさをこれでもかと見せ付けてくれる。止めを刺すときに『悪く思わないでくれ。お前が衝動的に過ぎたんだ』この台詞を表情を変えずに言いつつ彼女の首を折る！彼のぎこちないお辞儀といい、小清の死体が精武門に投げ込まれ、皆は犯人を追って出て、一人残った大師兄、『恨むなよ』と言い彼女の見開かれた目を閉じようとするが、閉じた目が再びくわと見開かれるたじろぐ様もナイス（彼でなくとも驚くだろうが）。彼は次の巻で、農勁孫の密命でスパイとして入り込んだ事が判るが…本当に損な役割だ。
　陳真、この巻では海岸でのマッハ及びブーメランヌンチャクを除きドラマに専念。
　由美と陳真が完全に物別れになる所からドラマは開始。この場面で陳真が由美に『君は父親を殺せるのか!?』と叫んでしまう事よりも気になったのは、英明と由美の挙式当日のシーンである。
　腐ってる陳真は綺翹に『自分を誤魔化すのはよした方が良いわ』と思いっきり見透かされて自分の心情を吐露する。
『そうだ、俺が悪いんだ。…俺は日本人を愛してはいけなかったんだ。まともな結果なんてない事は判りきっていた。それでも俺は自分を騙し、彼女を騙し、彼女にきっと素晴らしい将来があると嘘をついたんだ…俺が悪いんだ…俺だってこんなのは嫌だけれど…ひょっとしたら今日、彼女の横にいたのは俺だったかも知れない。ひょっとしたら俺が由美と結婚して家庭を持っていたかもしれない…そんな事を考えてる。でも俺はもう彼女と一緒にはいられない！』
　はっきり云って、陳真が長い台詞を喋ったのはこれが初めてではなかろうか。今までの彼と言えば、二言三言位しか言葉を交わさないのが当たり前だったのだが、ここに来て彼の鬱屈する精神が噴出したと言えば良いのだろうか、妙にインパクトが有る。
　由美の暴走留まる所を知らず、ついに英明とやけっぱちで結婚するが、この直前のやり取りも楽しい。
由美『日本に帰りたい、上海ううん中国にいたくない！』
英明『判ったよ。』
由美『私達…結婚しましょう』
英明『同情はよしてください』
由美『同情じゃないわ！』では自棄だな、由美。英明君もお可哀想に。
　犬養學富今回は良いとこなし。綺翹を捕まえようとしたら邪魔が入り、相手が一人なのを良い事に日本の威を借る犬養君がしたい放題やらかしたら、その相手は何と国民党の王（汪？）司令の参謀だったからさあ大変。夜中、蔡老板の居所を隠し続ける綺翹にアダルトな拷問を掛けようとしたら突然乗り込まれ、『はわわー』な状態。
　思わず『ど、どうやら誤解があったようです。酒でも飲みながら話し合いませんか』などとやるがグラサン潰された相手にそんな宥めは完全無効。意地悪し返され、挙句に一発蹴り入れられ、その部下達にすら可愛がられる始末。自業自得とは云え、犬養が虐められるのは殊更に可哀想に思える。何だかんだで一番酷い目にあってるのは他でもない、彼だからだ（二番目は劉振聲）。
　しかし、突っ込み所としては何と云っても黑龍會である。
　結婚式の後、英明は燕尾服きたまんまで黑龍會秘密基地にくるわ、もともと学生で軍属でもない彼に日本軍の軍服が支給され、それも初っ端から少佐だとか、武田が下駄履きで会議に参加してるとか、先行きの暗さを既に暗示する統制感の無さが素晴らしい。とても様式に拘る日本軍下部組織とは思えん。コネで少佐にはなれんて、中国軍じゃあるまいし。
　この時、侵略計劃の会議がなされている…で、其処で出てくるのが所謂『田中上奏文』というものである。
　これは中国側の作成した反日プロパガンダ書物の中でも最も有名な物で、日本が中国侵略から始まって世界征服を企てると記す、とんでもない内容の代物である。
　既に世界的にも『偽書』と認識されているのである（但し中国は除く！）が、悲しいかな作成者ゆえか…この世界では大手を振って存在しているどころか、これの作成された時期は田中義一内閣の時（1927-29）とされるのにこの物語の舞台である1911年の時点で既に存在している事になっているのだ！
　この1911当時では彼は爵位も持っておらず、無論首相である訳もないのだが…実に問題だなあ。幾等ファンタシーであるといってもあんまり好い加減な事書くと視聴者馬鹿にしてんのかと言いたくなる。それに連なる黑龍會の『征服天下！』の掛け声が実に勇ましくも馬鹿馬鹿しい。
　駄目だよ英明君こんなインチキ組織に入っちゃあ。

　更なる追加：時代設定そのものは1929年以降という考え方も出来るのであるが…蔡老板と蔡金虎が孫文の指示で上海に舞い戻っている事を考えると…これまた変である。というのは、孫文本人は1925年の時点で死亡しているのだから。…では、黑龍會の云っていたドイツから譲渡された山東省の権益と言う事に付いてはどうだろうか。これは1915年の『二十一ヶ条の要求』で取り沙汰されていた事である。やはり、田中内閣は成立していない。で、知野二郎氏の著作『香港功夫映画激闘史』によれば霍元甲が死んだのは1909年…頭が痛くなってきた。…1911年は辛亥革命の年で民間人には辮髪の習慣も未だ残ってただろうし…止めよう、時代考証を考えるのは。

第十三回

　四師姐の敵を討つべく劉振聲を霍元甲の墓前で殺そうと殴りつける陳真。もう少しで彼に止めを刺し、師姐の仇を討つ所だったが、その場に割って入った農勁孫が真実を話し陳真は漸くに悟る。劉振聲は農勁孫の頼みで、同朋の為に敢えて裏切り者として行動し、日本側の侵略計画の情報を入手しようとしていたのであり、四師姐を手に掛けたのも、彼女がもっと惨い死に方をする前に敢えてやった事だったというのだ。陳真は劉振聲が何故たった一人で孤独な闘いをする事になったのか問い質すが、劉振聲はその理由だけは決して言おうとしなかった。
　劉振聲の受難はそれだけでは済まない。彼は犬養學富の離間の計により自分が日本側に付いている事を皆の前にばらされ、裏切り者としてリンチまで受ける羽目になってしまう。今更事の真相を打ち明ける事は劉振聲には許されず、陳真の助けで漸く、精武門から追い出される事でリンチによる殺害だけは免れるのだった。最早彼には時間が無い。ちんたらやっていたのでは同胞に誤解されたまま殺される事になるのは必定と、彼は最終手段として武田の所に蔡學富宜しく転がり込む。だが、武田と英明は精武門の大師兄ともあろう者がそう簡単に寝返る筈も無いと考え、例の「田中上奏文」を使い罠を仕掛けたのである。そしてあせった劉振聲はその罠に掛かり、予め控えていた英明によって重傷を負わされてしまった。
　それでも何とか「田中上奏文」を奪取した彼は瀕死の状態で精武門に辿り着き、陳真にそれを渡し、霍元甲の霊前で『申し訳ありません…』と詫びながら息絶える。彼が何故其処までして自分一人の行動に拘った理由は作中では語られてはいない。だが、それが彼なりの陳真への挑戦だったのは間違いあるまい。
　同じ頃、英明は由美に『結婚したら日本に帰るって言ったじゃない』と詰め寄られて弱っていた。兄の遺志を継ぎ、国家の為軍人として己の任務を果たそうとする英明にとっては彼女の存在は苦痛だったのかもしれない。彼女が上海から離れたいのは、陳真に未練がある事に他ならない、と承知していた英明は全てに決着を付けるべく陳真に決闘を申し込む。互いの恩仇と個人的感情の渦巻く中決闘は行われ、勝負は陳真の勝利で幕を閉じた。
　英明の残された道は自刃しか残されていなかった…

　劉振聲と石井英明という、お気に入りのキャラクターが次々に死んで行く悲しい展開の巻である。劉振聲の陳真への対抗心から危険なスパイとしての任務をせざるを得ない心情や、結婚してからも三角関係に悩まされる（由美本人は否定していたけれど）英明は二人とも、陳真という一人の男によって人生を狂わされてしまっているからだろうか、何処か似ているものがある。二人とも報われない死に方と言う点でも同じである。劉振聲が瀕死の重傷を負いながらも持ってきた「田中上奏文（本編では田中奏摺）」の内容は全くの白紙で、彼の命を掛けた行動は全て徒労に終わってしまうし、英明は由美の心から陳真を完全に消す事が出来ない事を承知の上で、自刃の前に由美に『僕が死んだら陳真に嫁ぐんだ』と言ったら本当に彼女は陳真の所に行くし（もしも行かなけりゃ彼女が本気で英明を愛してた事の証明になったんだろうけれど…酷い話しや）。
　この巻で分かる事は、英明が本当に良い人だった事である。黑龍會に入ってからの彼は冷血を装っていたものの、色々な部分で非情になりきれない部分が多々あった。重傷を負わせながらも劉振聲にわざとやられた振りをして彼を逃がしている事からも分かる。少なくとも実利を取るならばあのまま屋敷の中で劉振聲を密殺していた方が良い事は彼にも分かっていた筈である。ここで思い出して頂きたいのは英明が『東亞病夫』の看板を使って霍元甲を挑発した件である。結局彼の冷血もこの時と同じで、陳真を怒らせ、自らと闘う事を余儀なくさせる為だけに今までの行動があったと考えるのが理に適っていると言う物である。だから、決戦前日に彼は陳真を呼び出して話をしていたのだ。霍元甲の時も同様に話をしていた英明だったが、今回違うのは英明本人は既に死其の物を既に恐れてはいない事である。と言うよりも、彼は本来の自分と黑龍會構成員としての自分のギャップを埋める事が出来なかったが故に破滅の道を自ら選んだのかも知れないと思わせる物がある。

廣東語版第二十八話における大師兄の活躍（2001.03.15追加）
　陳真に殴られた後、大師兄が武田家に潜入する直前に陳真との会話が入る。この時、陳真に自分が農勁孫の命で動いている事を他人に知らせぬ様託ける。『貴方は裏切り者のままで良いのか』との陳真の問いに『私は自分の選択した道を行くだけだ』と答えるシーンは泣かせるものがある。
　後、金装版で話の流れに関わりが余りない為にカットされまくっていた軍閥の張親子だが、この親子はどうやら張作霖・学良親子をモデルにしていた様だ（張作霖は匪賊上がりの軍閥である。後に関東軍によって爆殺された）。この張作霖ならぬ張宗棠、只の日和見主義者の野心家（つまり悪人）で鼠男のような人間で、陳真らの勢力が拡大して行く様を見て再び野心を滾らせ武田ら日本人に向かって『儂が東三省（満洲）に戻った暁には日本人は皆叩き出してやる！財産は皆没収し、日本人は皆殺しだ！』と叫ぶのである。『僑民（開拓者）は合法的にあそこで暮しているんだ、そんな事は出来ん！』と反論すると、『合非合法は儂が決めるのだ！儂にはその権利がある!!』と嘯く。
　悪いが筆者も『こいつは活かしておく訳には行かん』と思った。

第十四・最終回

　この巻の話の殆ど全ては日本語版精武門の下巻に収録されているので粗筋はパス。
　日本語版では田中上奏文については『前の首相』『首相』等の言葉で意訳され、作品が持つ胡散臭さはかなり薄められていた事に気付く。恐らくあのビデオの翻訳をされた方は相当頭を捻った事に相違あるまい。
　このドラマを久し振りに見返して思ったのは、日本人であるキャラクター達の人格はかなり歪められているとはいえ、大体に於いてはこちらにとっても理解できる心情の持ち主であった事が強く感じられた。（例外として武田が起こそうとしていた137計画、つまり上海で毒ガスを大量に発生させて一気に殲滅、占領を行う侵略計画等は、如何にも『屠城』と呼ばれる皆殺し作戦を常套手段とする民族ならではの発想だから考慮するに値しない）。特に石井英明の存在は白眉であると言っても良いだろう。極悪非道なキャラクターばかりが登場する傾向が非常に強い向こうのドラマでここまで善人（正確に言うと真面目なんだが）のキャラクターが存在した事は奇跡に近い。しかも、日本人である筆者にも充分感情移入できる「らしい」考えを持った存在として、である。このドラマを新たに観る方は、その辺りに是非注視して頂きたい。

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