混沌ルールを使ってみよう!・続き

或いは

ストーリーにおけるルールの裏付けは是である筈だ

注意:拙文はストーリープレイと呼ばれる物に対するパワーゲーマーの私なりの考えを述べるものであります。また、拙文はあくまでAD&Dプレイヤーのパワーゲーマー度のステップアップを奨励するものであって他のゲームには全く関係ないものとして作成しております。

『それは執念だ・続き』

…この頃にAD&Dを続けた事が今の自分のスタイルに直結しているのだろう。あの時、何故自分にルールを漁るだけの執念がついたのかといえば私にも上手に説明は出来ない。しかし、他のRPGに流れた人達が我々を『ルールが無ければ何も出来ないから』という、噴飯ものの理由で鼻で笑うかのようなネガティブな反応を返した事に対する怒りがあったのは紛れも無い事実であった。…暗いなあ。今だったら笑い返せるんだけれど。少なくとも、今こうして読者の皆さんに受けたカラムを書く為のネタにはなったのだから。

『ルールを探して自分のイメージ通りのゲームルールに変えてしまおう』

 さて、私が私事を書いたカラムで受けを取れるようになった(笑)背景については大体これでご理解頂けたと思う。それでは、混沌ルールを実際にシナリオに役立てる段階に入るとしよう。AD&D混沌ルールに必要なのは極端に言えば一つしかない。 …である(Dragon Archiveは必須)。無論、財力が無ければ出来ないのは云うまでも無いが、Dragon Archiveがあれば、一番安価で自分の使いたいルールが見つかる筈である。これは戦闘追加ルールに限った事ではなく、自分の作りたいストーリー…というか、自分が使ってみたいシチュエーションのネタがごろごろ転がっていると言う事である

 第1版と第2版を混ぜて使う事は、パワーゲーマーならば云うまでも無い(らしい)のだが、先ず戦闘のシステムをどれに依存させるかは決定しなければならない。現在、AD&Dの戦闘システムは大別して第1版、第2版、Combat & Tacticsルールの三種類が存在する。この決定は実に重要で、これが後にルール統合の為の作業の多少に関わってくる。

 我々の場合、第1版ルールを改造して使用しているわけだが、昔のルールを導入するに当たっては良いとは言え、最近のルール(例えばDragon#257の戦闘技術)を導入するにあたっては若干の修正が必要となる。この際例に出させてもらうがDragon#257、これにはCoap de Grasという、お手軽且つ強力な戦士用の技術があるのだが、C&Tルールでないと稼動しないものである。で、これを改造し(例:必要命中値+5以上で出目が18以上でダイス*2)、プレイヤーに変更点を告げて使用を認めるという手間が要る。無論、ルールに手を加えない方が望ましいのは云うまでも無いのだが、戦闘ルールの違いはどうにもならない。同じ事は、C&Tルールを使用しているところにDragon#165のコンバットマニューバーを使用する場合にも云えるだろう。特にStunのマニューバーのルールは第1版のDMGのp.72のPummelingルールを使用し、判定に成功すれば相手を気絶させる強力な技術だがこのルールの互換性自体はほぼ無いと言って良く、導入には相応の改造が要るだろう。こうした事はルールの混合上仕方が無いので、プレイヤーにはその旨を理解してもらう事が必要である。そうした事以外は、基本的にルールは其のまま訳して使用する事が望ましい。要は、AD&Dと呼ばれる範囲内であれば良いのである。

 AD&Dと呼ばれるゲームである事、其れは即ちAD&D用に作られたゲームルールの下で行われるゲームプレイである。物語其のものには全く関係が無い。ならば、AD&Dにおけるストーリープレイゲームと言うのは物語と言う建前を前面に出す方向でプレイされるゲーム、パワープレイゲームと言うのはルールが前面に出る方向でプレイされるゲームの呼び名と言う事になるだろう。結局、どちらであってもルールは必要であり、其れが無いとAD&Dでは無くなってしまうのだ。ルールの裏付けがあってこそ、AD&Dである。其の使用ルール量が多いか少ないかでも方向は変わるものだろう。丁度、私がルールを知らなかった頃に物語でセッションを運営していたように。では、ルールが増える事によってパワープレイ化が進むのだろうか。私の場合、多分に其の傾向が見受けられるのだが、必ずしもそうではない。前述したようにルールが表に出るか否か、の問題だろう。だが、ストーリープレイを行う方々が我々と同じ位ルールを読んだ上でそれをストーリーに編みこんで行っているのかどうかは知る由も無い。もしも拙文の読者で、ストーリーネタに関わるルールすら読んでいないにも関わらずストーリーを紡いでいると言う方がおられるのであれば、先ずそれを読んだ方が良い、と私は忠告しておく。
 AD&Dがルールを取捨選択自由なゲームであるにも関わらず、ルールを読まずにストーリープレイを語るのは、如何なものか。

 私の所で行っているセッションにおいて、最もパワープレイらしい部分は天査様による分析によると『DMはストーリー進行を手掛けている様に見せかけてその実はPCを嵌める為の悪辣な手段を物語のシチュエイションと称して用意している』の点と云うことなのだが、これを『PCがセッション中物語で其の能力を発揮できるよう最高にドラマティック且つ危険な演出を作り出す事をDMが楽しみとする』と変えればあっという間にパワープレイ寄りからストーリープレイ寄りになるのではなかろうか。すると、其の次の『よって、プレイヤーは嵌り状態に成らぬ為、ベテラン程狡猾な物言いをし、DMの罠を回避しようとキャラクターの口を借りて発言する。可能な限り〇〇-loreと呼ばれる知識系のスキルを習得し、セッションに登場するであろう未知の怪物や魔法に対する知識を持つ事を好むのは其のせいである。そうすれば、DMに要らぬ突っ込みを入れられる可能性が激減するが故に。』も、『PCは自分の想い描く物語を生きて完成させる為に、生き残る為の手段を常に考慮する必要がある。其の為の知識を得られると言うのならば彼らは喜んで得ようとする』に代わってしまうのだ。私の場合においては『ストーリー』と『パワー』はこの程度の差でしかない様だ。

『ルールの増加は果たして是か非か』

 混沌ルール(パワーゲーム?)DMとなるにはルールを片端から読んでいく事が必要であり、其の為の手間隙を惜しんではならない。ルールを読めば読むほど力量が増すゲームはAD&Dに限らず色々あるが、AD&Dの場合、選択し得るルール量が莫大なお陰で、戦闘ルールだけではなく色々なルールについての知識も得る事が出来る。即ち其れはストーリーの裏付けをルールによって補完できるようになり、ゲームプレイを普遍的に、他DM・他プレイヤーと容易く情報交換する事が可能となる。

 RPGのシチュエーションは出版会社が出す場合はある程度その荒唐無稽さが許される(流通する事で普遍性を持つ或いは製作者サイドだから文句を云えない…)が、個人でDMをする場合、余り酷いストーリー展開になると眉を顰められて相手に引かれてしまう事が多々ある。ストーリーゲーマーのDMにパワーゲーマープレイ参加者が入った場合のセッション失敗の多くはここにあると思われる(そもそも話が詰まらんのは問題外である)。

 これはAD&Dに限った事でもない。ただ、AD&Dにはルールが多過ぎたのである。

 其れ故に『AD&Dの名において自分のやりたいゲームルールができる』事よりも、『ルールに埋もれて窒息しそう』なイメージが付きまとう事となったというのは穿った見方だろうか。

 実際にルールを認識しストーリーをルールで補完しシナリオ作成をするに当たり、前回のカラム更新で書いた『自分の作りたいストーリー…というか、自分が使ってみたいシチュエーションのネタがごろごろ転がっていると言う事である』に対するBeholder様の意見は尤もな事であり、好い加減な事はするなと言う忠告であろうと私は受け取った。それへの返答も兼ねて書いてみようと思う。本当に返答になったかどうかは自分では心許無いのだが、其の時はまた辛口の感想をくれると思われる。

 私見からはっきりと云ってしまえば、ルールを前面に押し出したパワーゲームにおいて、ストーリーと言うものは二次的なものに過ぎない。現在の私の場合、最初にルールが存在し、それを利用する事でシナリオの『事件(ネタ)』は作成される。ストーリーからネタを捻り出す場合も、結局はルールの中でありうる物語のパターンを類推する事しか出来ない。同じ事である。

 これは私にとってAD&Dセッションにおける『ネタ』というものは、AD&Dルールの下で存在し得るシチュエーションである事が必須である、と云うことになる。そうなると、Dragonにストーリーのネタが転がっていると私が言うのも当然の話で、Dragonはルールの宝庫であり、それを利用する事はそれだけで事件を起こせる(シナリオのネタになる)からである。だが、この事は言い換えると、私の場合、『ルールを知らなければストーリーに広がりが持てない』となるのだ。この辺り、自分の想像力が貧困である事を認めずにはおれない。ゲームするには事欠かないのだが。

 AD&Dの混沌化に嫌気が差した人間はこれを感じて自分では実行不能だと察してしまった、と私は一要因としてこれを推測する。今でこそDragon Archiveの発売によって、其の辺りの金銭的負担は嘗ての何十分の一に減ったが、その昔Dragon一冊の値段を考えれば、到底妥協できる代物ではなかっただろう。やってる人間はやったのは事実だが。

 今は時代も違う。たった5枚のCD-ROMからなるDragon Archiveの存在はルールブック何十冊ものそれに匹敵する、二十年以上ものAD&D(だけでもないが)に関わったの英知の結晶である。これに勝るルール集は最早発売される事は金輪際無いだろう。誰でも混沌ルール、AD&Dと名の付いた己の要求を満たす為のゲームを作り出す事が可能となったのである。なればこそ、AD&Dルールの名の下に裏付けあるストーリーを誰でも、英語を読解できる能力(翻訳ソフトに掛けてもいいが修正が必須)と、根気よくルールを読む気力と其の時間さえあれば作成でき、しかもこれだけの代物が10000円を切った値段で流通しているのだ。それらを駆使する事は自分の知識量を増大させると共に、よりテーブルにとって遊びやすいルールのゲームを提供できるだろう。例え読んだ其の結果、選択ルールを『使用しない』事になったとしても(自分には考えもつかない事だが)、最低Sage Adviceを読む事でルールに対する怪しい解釈を減らし、混乱した場を収める役に立つだろう。

 Dragonの250冊以上に渡る中に存在するルールは膨大で、其の中から使えそうなネタだけで恐らく、月4回のセッションで最低10年は遊べるだろう(現に遊んでいる私がいる)。元手はすぐに戻ってくるだろう。Dragon Archiveには検索ソフトが搭載されており、調べたい話題を人力より相当早く調べる事も出来る。私のPCにとっては重いのが欠点だが、それは大目に見る事にしよう。

 閑話休題。ルールを増やした事で私はシナリオのネタが広がった。それは紛れも無い事実である。そして…最初は小さなルール(アンチパラディン)を導入する事から始まったが、其の積み重ねはいつしかゲームをDMだけではなく、プレイヤーにも影響を与えていた。そしてそれこそが、嘗て先輩プレイヤーにAD&Dテーブルを去らせたもう一つの理由かもしれない。其れは私を驚かせるに充分なものだった。

 プレイヤーが各々、ゲーム内で好きな事をし始める様になったのである。彼らはルールが拡大される事で、自分達の制限が取り払われる感覚を味わったようだ。つまり、自由と云うものを獲得して行く楽しみを得たらしいのである。つまり、DMという人間の枷からより融通の効かない筈のルールという枷を身に付ける事で、彼らは人間関係という何よりも重い柵から自由になったのである。

 いきおいDMが主導権を握りがちなTRPGにおいて、プレイヤーがDMに対して感ずる抑圧は決して軽いとは云えない。私が嘗てプレイヤーであった頃、DMであった先輩が全ての決定権を握っていた状態は正直健全とは云えなかった。DMが白と言えば黒も白くならねばならないという事に対して、私はずっと理不尽なものを感じずにはおれなかった。何故、DMの提示した筋書きに逆らっただけで死ぬ程の目に遭わせられなければならないのか、という問いが常に私の中にはあった。そして後に私は先輩DMに対する剣としてルールを使用する事を、ルール片手に先輩と遣り合う後輩の姿を見て覚えた。DMの理不尽極まりない裁定をルールによって制限できる事を知った私がルールを読む気になったのは前述の通りである。私の過去においては、プレイヤーこそがルールとその増加を欲したのである

 私はプレイヤーとしてDMからの束縛から逃れる為ルールを欲すると同時に、DMとして彼らの意欲を削ぐ事が出来なかった。せいぜい、「責任持って訳してくれ」と云うくらいだった。其の一因は私が気弱なせいもある(プレーヤーは嘘だ!と突っ込みをいれるだろうが)が、主な要因は私自身既に其の時点でジャンキーと化していたからだろう。

 『もっとルールを!』それが私に付いてきたプレイヤーの要求であり、私が欲求を満たす為のキーワードだった。ルールを知れば知るほど、其れを使って見たいと言う欲求に私は完全に取りつかれていた。そしてプレイヤーも、私の知らない(読み飛ばしていた)ルールを私の持つDragonから出してきて仰天させる事もあった。そして又其れを使う。この繰り返しである。もはやこの時点でDMとプレイヤーは対等の位置にあるといって良かった。其の結果、ルール談義がセッション中に展開されるに至ったのである。2種類以上の同じものを扱ったルールがあった場合、その採用決定は私が下すが、結局其れもプレーヤーの過半数で否決されれば其れまでである。今のプレイ状況(サークルセッションでは其の限りではないが)は其の結果とも云える。お陰でプレーヤーは自らプライベートセッションに来てくれる。正確に言うと、私の所のプライベートセッションは私がプレイヤーを選ぶのではなく、プレイヤーが私の所でのセッションを選んで自ら来てくれるのである。自らそれを望むのだからプレイアビリティが向上するのも当たり前であろう。

 以上の経験から、ルール増加の是か非か、其の答えは私の場合ははっきりと『是』である

 さあ、言いたい事は全て言った。これからは実践あるのみ。プレイヤーと手を取り合って混沌ルールを自在に使用し、自分達のやりたいゲームを存分に楽しむが良い!混沌ルールを採用する事できっと君達は自由と言うものを知るだろう。有限を以って無限を為す、それがゲームと言うものの正しい楽しみ方ではないか!

『おまけ・オープンサークルでのストーリープレイもどきパワープレイ』

…さて、大体このような形で運営されているのが私の所のゲーム展開である。ルール拡張によってストーリー展開を行うのが私のやり方と言う事だろうか。私のスタイルはあくまでもルールに根ざしたもので、其の世界の法則はパワーゲームの常である可変可能状態に在る。しかし、である。ルールの追加と世界観の変化は又別のものであると私は考える。流石に世界観其のものが変化してしまうようなルールの採用は、プレーヤー自身が難色を示せば其れまでであると前回私は述べたが、其の結果私の所では第二版用の爆裂した超能力ルールは採用が見送られた。第一版時のルールは余程の矛盾が無い限りは使用する事になっているが、其れは我々の執り行うセッションが第一版に根ざしたものであるが故に他ならない。混沌ルール下でプレイしようとお考えになった方々は恐らく大抵の場合は第二版を元にする事になるのだろうが、この際其れは問題ではないだろう。

 大切なのはプレイヤーとの間の風通しを良くしておく事である。ルールを完全に記憶できるに越した事は無いが、哀しいが其れが出来る人間は粗居ないと断言できる。唯、数人の記憶力を利用すれば個人の記憶力への負担其のものは減少する。また、プレイヤー側はルールを覚える事で自己の力量の増加を知る事が出来ると言うものである。更に余裕が出来たプレイヤーは、DMの提示した事件に対して多少の演技を交えて(恰もそれがストーリープレイであるかの様に)自己PCのロールを行える様にもなる。こうしたプレイヤーはオープンサークルにおいてのセッションで実に有難い存在となる。彼らはそうした場において常に私のセッションを盛り上げる存在となってくれるのだ。何故ならば、オープンセッションにおいてはルール習熟度が要求される事は基本的に無く(膨大な数のルールの運搬の困難さもある)、どちらかと言えばショー的要素の方が要求されるものだからである。

 オープンサークルでのセッションは、サークル運営という現実問題が絡むせいで人間が来なければお話にならない。残念ながらそうした場に現れる諸氏のプレイアビリティは決して高いとは言えないが、彼らは場を楽しむ為に来られるお客様であって、それ以上でも以下でもないと考えれば埒も無い。唯、そうした人達にAD&Dの世界を垣間見せ、楽しんでいただければ良いのである。こうした意見について、オープンサークルセッションを軽視した発言として否定的に見られる方々も居るとは存じ上げる。しかし、実際にそうなのだから仕方が無い。AD&Dのみのサークルを標榜する訳ではないオープンサークルにおいて常に一定の客を呼べるAD&DのDMはこの日本においては恐らく100名以下であることはここ大阪におけるお寒い状況からも想像できる。私はそこで様々な軋轢の中、9年DMを続けてきた実績があるから言い切る事が出来る。オープンサークルではルール使用量は必ず減少させなければならない、と。使用量が少なくなれば、其のシナリオ内容も変化する。かくして、月二度のサークルセッションにおける準備はいきおい初見のお客様にも対応した内容の物を作らねばならない。キーワードは『不殺』である。これを忘れるとセッションに殺戮の嵐が巻き起こり、下手をすればサークルのお得意様が減る事になる。更に私は以下の工夫を凝らす事を何時しか覚えていた。それは…

…こんなものだろうか。其れ以外は変わらないと言って良いが、こうしたセッションはベテラン受けが必ずしも良いわけではない。何時も私は彼らに『もっとパワーが有っても良いのではないですか?』と要求されるのが良い証拠である。初心者向けだからいいのさ、と私は答えるしかない。両方のセッションに参加してくださるベテラン諸氏には頭の下がる思いである。これからも手伝ってね。多謝!

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