混沌ルールを使ってみよう!

或いは

ストーリーにおけるルールの裏付けは是である筈だ

注意:拙文はストーリープレイと呼ばれる物に対するパワーゲーマーの私なりの考えを述べるものであります。また、拙文はあくまでAD&Dプレイヤーのパワーゲーマー度のステップアップを奨励するものであって他のゲームには全く関係ないものとして作成しております。

 ダンジョン探検。AD&Dというゲームをプレイするにあたり、ルールシステム(言うまでも無く戦闘ルールだ)を覚える為の基本中の基本であると同時に、時には最上級レベルのキャラクターからなるパーティすら簡単に壊滅させる事が出来る、釣りにおけるフナのような冒険を表す言葉である。上記のエピソードはその後者を文章化した一部であると受け取っていただきたい。

 ところで、敬虔な?AD&Dゲーマーの方々で、以上の様な物語を目に(耳に)した時、何を思われるだろうか。恐らく二通りのアプローチがあると私は考える。一つはパワーゲーマー的アプローチ、もう一つはストーリーゲーマー的アプローチである。
 ストーリーゲーマー的アプローチから拙文を読んだとき、以上のエピソードは作者があるキャラクター(この場合Drowのシェリン)に焦点を当てた結果このようなエピソードが作り出された、と受け取るのではないだろうか。この場合、あくまでも注意の対象になるのは、Drowでありながら地上人に案内人として雇われているキャラクター・シェリンのみに過ぎないと思われるが如何だろうか。なぜならば、ストーリーとしてこのエピソードを読むと、名前が出てきているのも、心理描写が為されているのもシェリン一人だからである
 そしてもう一方、話の中にある演出の中からルールを分析・類推するのがパワーゲーマー的解釈である。

 このDrowが案内人として雇われた時の値段がもし記述してあれば其のレベルを類推するだろうし、

 戦士が恐怖の叫び声を上げて逃げ出したのは決して単なる作者(DMと言っても良いだろう)の演出などではなく、Dungeoneer's Survival Guide(以後DSG)P42-43に掲載されてある、NPCの地下での滞在期間が長い場合発生し得るUnsteady reactionの結果であると考えるだろう

 また、このルールにはドワーフ、ノーム、ドロウのNPCには適用されない(このルールが発売されていた当時からDrowのPCルールは存在していた)ばかりか、PCにも適用されない事から、逃げ出した戦士がHirelingである事に気付く事もあるだろう

 そして、Cave Fisherが目でものを見るのではなく、外見では目に似た『耳』で獲物を感知して攻撃する事は、Dragon#135にあるThe Ecology of Cave Fisherを読んでいれば納得できるし、また金属鎧をガチャガチャ言わせている対象に対してはそのフィラメントの命中判定に+2される事から、ACがある程度高いはずのキャラクターが其の攻撃対象となったことも判るだろう

 「首が落ちてきた」のは、演出であると分析するだろうが、その後僧侶が悲鳴を上げたのはHorror判定に失敗したからだと考えるかもしれない。
 もし拙文を読んだ方がパワーゲーマーを自認なされるのであればこう言った考えをお持ちの筈だし、もしストーリーゲーマーを自認する方でもこのような解釈の仕方をマスターしておられるのであれば、充分パワーゲーマーとしての資質も持ち合わせた人物であろうと思われる。

 ここまで書いてみれば、それがリプレイ小説のような形であれ実際のプレイにおける演出であれ、AD&Dのルールを厳密に使用しても、必ずしもストーリー作成の妨げになる訳ではない事が漠然とは言えお判りになる事と思う。ルールの判定から導き出される結果は、時には『事実は小説より奇也』でプレイヤーは勿論、DMにすら新鮮な感動を与える事にも成り得る。

 嘗てドラゴンランスモジュールのテストプレイにおいて、レイストリンのプレイヤー担当者が溝ドワーフの一人にcharmを掛けた結果、そのIntが足らぬばかりに効果時間が予想以上に長く、彼に付きまとったという事から、小説にも其のエピソードが加えられたという実例もあるのだ。(尤も、DLに関してはパックス・タルカス砦であのパーティ戦力(哀しくなるくらい弱い!)で赤龍マータフレールにあって全滅した経験を持つ方々が小説を読んで『女装して通り抜ける』という件を読んで唖然としたという実例もあるのだが…この件を読んだパワーゲーマーならば、同様の思いを抱いた方がいるだろう。こういった負の例があるのも事実だ)

 このカラムでは、自分にとってのパワーゲームとは、ストーリーゲームとは何かを徒然に書きながら自分のプレイスタイルを再確認してみようと思う。

『自分のプレイスタイルがパワースタイルだったとは!』

 さて、作者本人は自分の事をつい最近までパワーゲーマーとは考えていなかった。この事が、自分だけが判らぬ事実(!)として周辺の方々に認知されていたのは、私の身近にいたプレイヤー諸氏はご存知の筈である。それは何故か。私自身がパワープレイというものと世間一般に言われているストーリープレイというものを曲解していた事に他ならない。ついでに言うと、私自身はストーリープレイにもパワープレイにも成り切れない、しかしどちらかと言えばストーリープレイ愛好家の筈だ、と考えていたのである。

 私がそもそも考えていたストーリープレイとは、このようなものである。

 それに対して、パワーゲームと言うものは、 …とまあ、こう考えていたわけである。パワーゲームへの偏見に満ち満ちているのがよくお判りになるだろう(あながち間違いでもないとは自分でも思っているのだが)。 …先ずは、この偏見がどう統合されて行ったか、自分の考えの変遷の理由を辿らねば自分でも何を書けば良いのか判らないので、取り敢えず書かせていただく。そうしなければパワーゲームと言うものについてのマイナスイメージを消せないし、自分がパワーゲーマーである事にも不快なだけだからである。

 そしてある日、いつものようにプレイヤー諸氏といつものように雑談をしていて、何時の間にかこの手の話題に移っていた。そしてそこで改めて自分がパワープレイヤーであると指摘された。「自分はストーリー派だと思うのだが…」という私の言に一人はこう答えた。『誰が見てもパワープレイヤーです』と。其の理由は以下の物である。

 もう御分かりだろう。私がルール尊重者であり、ダイス判定を多用すると言う事が即ち、パワーゲーマーである証だと言うのである。何よりも、DMである私が設定した一部キャラクターが明らかに『他者を嵌め殺す』事を目的とした、つまりファンタジー世界に似つかわしいイメージ先行型のキャラクターではなくルールを利用して作り上げるルール先行型の其れである事がそれを雄弁に語っている、と。物語の有無とは全く関係がなかったのである。そう聞いた時に疑問は氷解した。ならば、私が考えていたストーリープレイという物はすべてルールが表に出ているものであるが故にパワーゲームの延長線上に位置するものだったのか、と。  そうすると、私が実際に行っているセッションはこう言う事になる。  何か身も蓋もない書き方だが…これが私の言うストーリープレイの現実であり、正体であった!

『…それは「執念」だ』

 冷静に自分のスタイルを分析して行くと、結局の所ルール探しを好むが故に今のパワージャンキーに陥ったらしい(このあたりにまだ蟠りを感じる)事が判る。しかし何故、このような結果を呼んだのだろうか。私本人は決してまめなタイプではなく、寧ろ怠けるのが好きなグータラ男である。
 しかし、たった一つだけ、今の状態に導く原動力に直結したものがある。それは『執念』である。AD&Dにおける知識・戦術を上達する為に私が必要とし、恐らく現在パワーゲーマーとしてやっていけているDM諸氏は何らかの形でそれを会得している筈である。私が「パワーゲーマー」と同じ位ネガティブな響きを持つこの感情を持つに至った理由は次のようなものである。

 少々暗い話になるが、私のような人間すらこんなものだ。これからAD&Dをやろうという人間には大いに励みになるだろう。(本当かおい

 この辺りが切っ掛けである。PHB・DMG・MMしか使用していなかった当時、最も肩身が狭かった(と少なくとも感じていた)私は、データをコピーして持ちかえり、どうにかしてパーティで目立たんと画策し読んだ。
 所が、である。AD&DのThiefがD&Dのそれに比べて強いと言っても他のクラスが強かったのでは何にもならなかった。尤も其のお陰で半年後にはDMの代わりを務めることが出来るようになっていた。

 しかし実際にはルールが読めない(数行解読するのに長時間を必要とした)事とルールブックの無さ故に(最初に買ったのが何故かOA。MMは結構後)、専らPCの相手はDMGにデータの有る分で稼動する単純作業モンスター+NPCシーフギルドだった。他のRPG関連の雑誌がルールよりもDMの裁定を重視するプレイを宣伝していた事もあり、RPGは『ルールを知らずとも遊べるゲーム』として認識され、少々の時が過ぎていった。このまま何事も無く過ぎていれば、私も其の時点からそれ以上の進展をせずに完結していただろう(そしてきっと別のRPGか、それともRPGから手を引いていた)。だが、ここで更に私を『押す』事件が起こった。其れは…

 公式ルールのパワーアップ記事と、Dragon誌にある混沌記事が一時期にどっと入り込んだ事件は我々ペーペーのセッションゲーマー全体に衝撃を与えた。或る者は混沌化するAD&Dに嫌悪し始め、又或る者は混沌化の波を制限しようとした(当時の私はこれに当たる)。そして、混沌を更に持ち込み、自分らに有利にせんとする者達もいた。
 既にDM2代目をせざるを得なくなっていた私は自分の知識量の無さをカバーせんと自分でもルールを揃えるようになっていた。そして、自分がDMをする事から行使頻度が限られる事を考慮しデミヒューマンで複数のキャンペーンに出現できる寿命を確保、かつレベルが低くとも強力な存在をマスターPCとして作成する目的(勿論その作成当初の目的の一つがパワープレイヤー牽制用だったことは私も認める)でルールを漁って作成したのがDrowのMU/Assassinだった(UAではなくFiend Folioバージョン。元がNPCである事から私が動かす分には問題無し?)。そのMagic Resistanceの強さはHPの無さを当時十二分にカヴァーする事が出来、イメージも膨らみまくった。私がDrowを愛好する切っ掛けになったのはこの時であり、ルール探しが『必要』から『快感』に変わった瞬間でもあった。
 この頃からルールの訳に対してセッション中に論議が発生するようになるが、これが更にストーリー優先派をいらつかせる要因となり、テーブルを離れる切っ掛けとなった。DMである私はもはや其の時点で万円単位に突入したAD&D用経費?が有る為もはやAD&Dを止める事は其れまでの自分を否定する事であり、プレイ継続を暗に求めるプレイヤーがいた事から継続を決意した
 そして、相変わらずRPG雑誌はぬるい、耳障りの良い言葉を撒き散らし現場で発生している軋轢についての答えは何も与えてはくれなかった。あまつさえ、まるで我々の存在其のものを『悪』として否定し抹殺せんとプロパガンダを行っている様にすら思えた。其の影響か、我々はあたかもそれらの流れに逆らうかのようにルールを捜し求め、ストーリーを補完すべくルールブックを、モジュールを、Dragonを、Dungeonを、そしてPolyhedron(あるかよ!)を求めて関西各地に点在するゲームショップをさ迷った。しかしそれは決してPC/NPCを強化する為のものではなく、ストーリーをよりゲームとして完成させ、いつか来るであろう自分が存分にプレイヤーとしてプレイできるDMが育ちやすい環境を作る為であった(…様に思う)。

 続く。

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