時代は明期。遥か日本から中原武林に単身乗り込んで来た男、柳生新蔭流・柳生一劍(徐少強)。彼は武林の高手に次々と戦いを挑み、此れを斬殺して行った。一剣の使用する剣法はどの中原武林の剣法とも違い、唯の一振りで勝敗が決してしまう。中原武林の高手達もこの男の出現を恐れ、江湖は騒然とし恐々とした日々を送っていた。あの日本人に対抗出来る高手は最早中原には居ないのか?伝説の男、燕北飛(劉松仁)、天下のあらゆる剣術を体得したと呼ばれる一代の大剣客が最後の希望として柳生に挑むが、彼も壮絶な戦いの上、相討ちに近い状態とは云え敗退してしまう。燕北飛は一剣に7年後再び決着を付けよう、其れまでは中原に来るなと、自分の蒙った致命傷を最後の力を振り絞って隠し約定する。これで7年は一剣が中原で殺戮を繰り返す事はない。だが、7年後再び現れる柳生一剣に対して中原武林の高手達は打つ手が無いに等しかった。最早燕北飛はこの世には居ない。中原武林の未来はどうなる?燕北飛の息子・孤鴻(張國権・我和彊屍有個約會の復生)の手に全ては託された!
…てな感じで始まるのがノベライゼーション。
今回、全二十枚の簡装版(再編集・短縮版とも言う)のVCDに加え、ついに全四十話のビデオをレンタルすることが出来たので、それのレビューを書く事に決定。
レンタル物である為、全話ダビングした上で原稿書きに取りかかろうと考えていたのだが、我慢できず最初の話だけ見てしまったのでそれだけは書いてみようと思う(徐少強はそれ以降又暫く出て来なくなるし)。この作品は前述した様に視聴率其の物は惨敗と言って差し支えない代物だったが、兎に角強い、絶対に強い一劍・徐少強の魅力大爆発のこの亞洲ドラマは、お気に入りの役者の殆どが出演して居る(呉廷Y、尹天照、洗浩英、楊恭如、甄志強、徐二牛等)だけではなく、ドラマ的にも二世代に渡る野望と怨恨、武林の正邪派の対立、闘いについてのそれぞれの見解、そしてお得意の多角形恋愛関係と非常に豪華で、特に物語後半の柳生一劍と燕孤鴻(成長後は劉松仁)の間で揺れる真のヒロイン・小蓮(楊恭如)の存在は彼女のファンならずとも必見であろう。
…日本人・一劍の扱いが素晴らしく良かった(良過ぎた?)為に、中国人には受けが宜しくなかったかも知れん、と考えてしまうのは邪推だろうか。
広東語版の第一・二話を見る幸運に恵まれ、VCDの1巻から抜け落ちている部分が相当あるのでそれに対する補足を。大体判ったのだが、強引に二話を1巻に纏めてあるのが簡装版VCDの特徴の様である。これでは後に雪花神劍も借りねばならないだろう。
第一話から(だから?)、パワー大炸裂。冒頭部分から師匠と真剣勝負し、斬殺する一劍。この時点では本名、農民一郎であるが…。筆者は字幕無しのVCD音声を聞いていて、何かおかしいな、とくらいに考えていたのだが…幾等何でもその苗字はないでしょうに。で、思い出したのが徐少強の英語名『ノーマン』である。広東語の発音だと農民とノーマンの発音は殆ど同じである事から、恐らく徐少強がこの柳生一劍と言うキャラクターと一体化すべく、己の名前を敢えて使用したのではないかと思えるのである。『一郎』はかの名作『妖刀斬首剣』の宮本一郎から取ったのだろう。つまりは、『農民一郎』ではなく『ノーマン・一郎』なのである。徐少強が自身と宮本一郎を重ね合わせて作り出した最強の剣士、それが柳生一劍の正体であるといえるだろう。
彼にあるのは、只管に己の剣を極める事のみ。剣を通してしか己の存在価値を見出す事が出来ない、文字通りの剣鬼である。だから、彼は強者を求めて大陸へやって来たのである。『生死決(妖刀斬首剣)』の宮本一郎が、将軍の命を果たすべく、己の師匠の死を背負って必死必勝の覚悟で大陸に赴いたのとは全く違うのである。だから、柳生一劍は次々に武林高手を手に掛けて行く。
無門関、仏に逢うては仏を殺し、父祖に逢うてはこれを斬る、しかして無。只己こそが真実。彼は己の真実を追究する手段として剣を選んだのである。他人を斬る事で己の真実に一歩でも近付こうというのだ。高手を斬るのは己の力量を確認する為である。正に苛烈其のものの生き方である。少なくとも日本で出版されている武侠小説においてこのようなキャラクターは存在しない。何処でもない、(敬愛するカズオ・コイケの作品に頻発する)歴史的日本にしか存在しないキャラクターが武侠小説の世界に出現したのである。
これまで述べた事からも、画像からも、当作品が並々ならぬ力に満ち溢れているのは明らかである。有無を云わせぬ柳生一劍の存在感がここで示され、次々に武林の高手が斬殺されて行くシーンへと続く。彼の前には中原武林の(並の)高手など、まるで紙人形の如し。視界が限定され動きが鈍る豪雨の中で数人の刺客に襲われても全く動じず、流れる様に殺戮する。日本の時代劇の殺陣をマッハアクションにして更にワイヤー風味を持たせたもので実に見応えがある。このシーンに『生死決』の宮本以上のカタルシスがあるのは『悪の中国武道界が放った刺客』を次々に撃破して行くからである。
ここに描かれる正派の領袖達の姿からは、所謂香港ドラマを含めた中国歴史物で必ずと言って良いほど存在した、絶対悪の日本人に対する絶対的正義の具現者、ヒーローとしての中国人といった、ポジティブなイメージは全くと言って良いほど感じられない。自己の保身と組織防衛に汲々とする、卑怯且つ陰険で器の小さな『小人』そのものである。あくまでも剣に命を託して道を極めようとする一劍に比べると、どう贔屓目に見ても『邪悪』でしかない。名門正派のその邪悪な素顔は、魔教に属する燕北飛に対して嘗て取った襲撃方法からも窺い知れる。燕北飛の仲間・火尊者を買収し騙し討ちにし、その襲撃者の一人は共に来ていた、楚奔の娘・心如(荘靜而)を盾にする始末である。第一話において、只一人中原で一劍に対峙でき得る力を持った燕北飛自身が、武林という"世間"から疎外された存在であることから、既にこのドラマの本質が異端者対部外者の孤独な戦いである事を図らずしも露呈させており、所謂正道の者が異端・部外者を倒すと言う『正義』から外れてしまったが故に、そして正義が正派ではなく異端者である燕北飛だけではなく、本来ならば決して与えられるべきではなかった筈の一劍にすら正義が委ねられている事が、視聴者にとっては受け容れられにくかった原因の一つではないだろうか。
燕北飛の所に到達するには、毒気が大人の腰の部分から上に漂っている崖に掛かった橋を渡らねばならない。橋には『這いつくばらねば死』などと物騒な事が書かれた立て札があり、正派の一人はこれを侮辱と見て取り『こんな馬鹿なことがあるか!』とそのまま歩いてきっちりやられてしまう。武当派の若き領袖(元の領袖・蒼璧(徐二牛)は柳生一劍に斬られた)蒼松こと秦百川(秦[シ市])は、幼い燕孤鴻が渡るのを見て燕北飛の真意を見て取り、文字通り四つん這いになって橋を渡り、燕北飛と邂逅を果たす事に成功する。
しかし、北飛は吐き捨てる様に『武林がどうなろうが俺の知ったことか!』と叫ぶ。自分の仲間を裏切らせ、騙し討ちにした恨みは消えてはいない。蒼松は仕方無しに踵を返すが、その時に孤鴻と心如が付いて来ていて楚奔との数年振り(文脈からすると駆け落ちしてからこの地に住んだらしく、八年振りと思われる)の再会を果たすが、親父も親父で意地張って『父などではない!』と言い張るばかりである。
楚奔が燕北飛を事の他憎むのはこの為だった。心如は燕北飛に助けられてから彼を思うようになり、ついには駆け落ちしてしまったのだ。楚奔は激怒し、弁明しようとする心如に向かって『貴様などこの袖と同じだ!』と自分の着物の片袖を斬り飛ばして親子の断絶を宣言する。この時に燕北飛と斬り合いを二手演じ、件の傷痕が出来るのである。
そして、それと入れ替わる様にして一劍が到着。しかしここからが真骨頂である。何と彼は毒気を剣風で吹き払ってそのまま渡り切って来るのである。剣で風を作るって…ゲームのキャラかいってツッコミが入るが、それを見た北飛が『ここに立ったままで人間が来たのは八年振りだ』と述べる件から、北飛もまた同じ事をやったようだ。
『だが、最早これからの人間が(同様にして)渡る事はない』
この台詞から始まる二人の会話の緊張感が堪らん。自分が如何に強敵の存在を待ち侘びていたか、そして燕北飛こそが自分の知る限り、剣の最高の境地(物語後半では『有情剣の境界』とも云う。この時点では一劍のあるのは其処より一段下の『無情剣の境界』と思われる)に達した唯一の人間であるからこそ、自分の限界を超える為にも是非戦って欲しいと切々と訴える一劍に対し、『八年前に剣は捨てた』とあっさりと断る燕北飛の愛想の無さ。妻子あるが故に剣を捨てた北飛に対して己の願いを一瞬で砕かれた一劍だったが、それでも『待っているぞ』と言って紳士的に去る所も分別ある態度で好感が持てる。
この時点で一劍の年齢設定は恐らく二十代後半から三十代前半の、剣士としての最盛期であろうと思われる。故に、未だ待つ事が精神的にも出来たのだろう。例えは余り良くないが一年遭えなかった恋人同士が約束を1日ずらしたくらいで諦めたりするか、というニュアンスだろうか。だがそれ故に物語ラストになって悲壮極まりない『俺は二十年待ったのだ!』の台詞が彼の口から発せられる事になるのである…
この物語で、後に孤児となった燕孤鴻を育てる事になる武当派の新掌門・蒼松はもう一つ、秦百川という本名を持つ。彼は以前、その名で知れた緑林大盗つまりは盗賊だったが、人々から傅かれる、武当派領袖と天下一の座を欲して武当派に入門したのである。彼は自分が正派の掌門になったものの、その実情が殺人と陰謀の渦巻く、緑林大盗の闊歩する江湖と何ら変わりがない事に気付いた時、彼は何故自分が掌門になれたのか理解したのである。…つまり、一派を率いてその名声を揺るがぬばかりか、更に高める為には、権謀術数を操り、ありとあらゆる手段を取れる聡明な人間がその頭になるしかない、という事である。蒼松にはあと三人もの師兄が居たが、前掌門の蒼璧にとっては、そのどれもが不適格だったという事になる。
彼は柳生一劍に『お主の天下一にならんとする野心は、同じものだ』と言われ、『後十年の修行を積めば我が好敵手となろう』と賞賛される。蒼松の中に燻る野心の炎を彼は見て取ったのである。其れを聞いた蒼璧も『儂の目は確かだった』と洩らす。更に、蒼松は燕北飛にすら『お前のような人間は初めてだ』と賞賛され、酒を酌み交わす事になる。だが、その一方で彼を元盗賊として嫌う人間も多く、正派の他(崑崙、泰山、崋山)の正派掌門達にも良く思われていない。結局、彼も燕北飛や柳生一劍同様、正道からずれた人間だと言う事になる。
……たった二話でここまで詰め込むか?
簡装版とオリジナルでは一劍の扱いにとんでもなく差が出てくるので、まず、抜けた部分の解説を。
第一話で一劍の苗字が「農民」とあったが、これにも意味があった。一郎(後の柳生一劍)は、本当に播州の農民(ここでは小作農の意味)の出自である。彼は、水害、天災(わざわざ分けられていたが水害は人災か?)、不作などに悩まされ、そのくせ自分の田も持てぬ小作農の身分に嫌気がさして、自分の父も、妻子も全て捨てて剣で身を立てる道を選んだのである。
そしてカットされた中で最も問題なのは、中原まで追い掛けて来た一劍の妻・千惠子(王微)に関わる場面が根こそぎ切られている事である。これがあるのとないのでは、一劍というキャラクター描写の根底が変わってしまう、それ程重要なものであるというのに…
一劍の妻、千惠子が彼を追って中原まで来たのは、一劍こと一郎を故郷の播州に連れ帰る為である。一劍の父は大寒波の襲来によって水の供給が途絶えた為に、遥か山頂の温泉まで灌漑用水を引きにいって帰らぬ人となり、息子の小次郎を残して身寄りの無くなった彼女は息子を里子に出して彼を迎えに来たのである。
『俺は天下一の剣客にならぬ限り日本に戻る気は無い。帰れ!』
と言う一劍に向かって首を振り、『そなたは小次郎の母ではないか!』と怒鳴るも『それでは貴方も小次郎の父ではありませぬか!』と言い返され、業を煮やした彼は自分が小作農である限り田も持つ事が許されず、惨めな暮らしを続けるなどご免だ、と叫ぶ。このネガティブな動機こそが一劍を剣士たらしめているのである。彼は自分にとって未練となるものを一切捨てて、剣一筋に生きる道しか己に残さなかったのだ。其れ故に、一劍は己とは全く反対に、妻子の為に闘えるとのたまう燕北飛に対して対立する感情を持たざるを得ない。そして、其れを象徴するかのように二人の剣も又、正反対の性質の物である。燕北飛の剣は天斌の才であるのに対して、一劍は自身曰く、『無数の敗北の中から勝ち取った』ものである。彼は自身を追い詰める事で剣の腕を磨き上げた努力の人でもあった。にも関わらず、一劍の届かぬ境界に燕北飛は到達している。
そのジレンマに苛まれた彼は、唯一の心残りとも言えるものを自ら破壊する事で一切の迷いを断ち、北飛に並ぼうと恐ろしくも悲しい決断を下した。…妻・千惠子を斬殺したのである。全てを知った上で従容として自ら一劍の手に掛かった彼女の態度も又、余りにも悲しい。
しかし、もっと悲しいのは、愛妻の犠牲まで出したにも関わらず、燕北飛に敗れてしまった事である。彼は亡き妻の墓前で己の絶望を語り、切腹を決意する。(第四話で切腹した彼がどうやって物語後半で復活したのかは今は不明であるが…)
斯様な演出を現在の日本の時代劇で見る事が皆無に等しいせいもあるが、ここまで『判った』演出を香港のドラマで見る事が出来た事は実に稀有な事と言えよう。この背景には、香港で現在の日本のぬるい時代劇を見る機会は皆無と言って良く、その代わりに60-70年代の名作時代劇がVCDで手軽に入手できるという現実があるからだろう。本作品における一劍のキャラクター設定には多分に若山富三郎の『子連れ狼』から拝借したと見られる部分がある(柳生晨嚴に至っては格好が柳生烈堂まんまである)のは本作品をご覧になれば一目瞭然と言う物である。
こうした件を一切省いてしまった簡装版作成者の意図は筆者にとって全く理解の範疇を超えている。
その他、簡装版にも収録されているシーンについて。
楚奔が弄した策を見破った燕北飛が自ら条件を突き付ける件の会話もきな臭くて良い。この辺りから、楚奔目が全く笑っていないのである。殺気とも狂気とも形容しがたい楚奔の眼差しの演技は『精武門』の三師兄の頃より遥かに上達したと言えよう。娘を使って己を動かそうとする楚奔に辛辣な口調で攻める北飛に対して、自分には掌門としての尊厳がある、とうめき、『魔教と正々堂々と渡り合ってきた私が、このような手段を…』と弁解らしい言葉を吐くものの、『笑わせるな!貴様等正派は偽善者その物ではないか!』と北飛に吐き捨てられ、あまつさえ『正派の人間は皆、面子が欲しいくせに命を賭ける気も持たぬ虫けらだ!!』とまで言われてしまう。…確かにあんな作戦が正々堂々と言われたら燕北飛としては堪らんわな。尤も楚奔が苦し紛れに『老いたりと言えど、若造に説教食らうほど落ちぶれてはおらぬわ!!』と叫ぶのが又らしくて良い。
そうした場面を踏まえながら、蒼璧の目的である『燕北飛と柳生一劍抹殺計画』が着々と進行して行く正派の人間の冷酷残忍な有様がこれでもかと描かれて行く。心如と燕北飛の心残りは、自分達が楚奔にその婚礼を認められない事だったが、それすらも利用して燕北飛を亡きものにせんと形振りかまわぬ彼等の余りの悪辣陰険さは特筆に価する。試合を終え傷付いた一劍の情報を、彼を仇と狙う連中に流すわ、婚礼の儀に乗じて北飛殺害を敢行するわ(この時に北飛を殺す為に楚奔は自分の娘ごと刺突を繰り出している。この傷が彼女にとっては致命傷になった)と、文字通り手段を選ばない。蒼松が嫌気が差すのも道理と言う物である。
とうとう最終部に突入してしまった。あと四話だと思うと悲しくもあるが、仕方が無い。
一劍の復活、今回は其れに尽きる。髪は金色に変わるし(ハッタリの為にわざわざ染めている可能性高し)、妙なマジックアイテムやら死人を生き返らせる方術も身に付けて、益々その人間離れした強さに磨きが掛かるわと笑いのつぼも押さえているが、そんな要素も吹き飛ばす彼の余りに暗い情念はやはり健在である。簡装版ではやっぱり生きていた辛暁月と共にその出番の良い所がすっ飛ばされていた。特に一劍を語る上で重要と思われるのが、楚江南と秦百川が決闘するにあたってその前夜、一劍と秦百川が語り合う場面である。静寂を求める一劍は、自分が静寂と闇の中で生きてきた事を語る。
「闇の中、感じられるのは己の血流のみ。一滴一滴、流れる音だけが全て」
彼の情念の暗さを表現するにあたり、「白髪三千丈」といった大げさな中国語的な表現とは全く違う、日本人的な表現が使用されているのが実ににくい。彼が重ねてきた数限りない敗北の経験を裏付ける恐るべき台詞である。一劍が燕北飛に敗北した事にあくまでも拘る事から、彼は嘗て自分を打ち負かした存在全てを再戦で倒して来ているものと思われる(だったら第四話で切腹なぞせず、とっととリターンマッチすれば良いのにと思うのは筆者だけではあるまい。大体、第四話で切腹する必要は後の展開からしても余計なだけだったし。ノベライズ見たく再戦の約定だけしていれば良かったものを)。
彼にとっては「他人は自分の剣の礎でしかない」と言うこれまた暗い台詞が出てくるのもこの時である。
これは秦百川が一劍を理解する事が適わず「とうとう友人にはなれず仕舞でしたな」という溜息混じりの声に答えた「私には友など必要ではない」と言う台詞の後に続くものであるが、この時に秦百川は楚江南すらも彼にとってはコヤシにしか過ぎない事を悟るのである。決闘の結果、秦百川は全身の経絡を破壊されて瀕死の重傷を負う。その時に秦百川は燕北飛の剣法を使用したのだが、一劍は冷然と、守るべきものがない人間にあの剣法は使えん、負けて当然だ」と言い放つ。そして、この台詞を耳にして秦百川は一劍の真の目的が成長した白雲である事を確信するのである。一劍は既に、嘗ての自分が打ち勝てなかった燕北飛の剣が、己の「無情剣」よりも高い剣の境地「有情剣」にある事を理解している。ではそこで何故、楚江南に無情剣を教えたのか。それは後に明らかにされるだろう。
物語の進行に伴い小蓮の行動が怪しくなってくるのがなかなか楽しい。カットされたシーンでは、(やっぱり生きていた)辛暁月に殺されかける(彼女は小蓮が莫愁、初陽を殺し自分に罪を着せたと考えている。かつ、小蓮が聖教教主の娘でない事も突き止め、証言が出来る生き残りを連れてくるが雪巓についた途端そいつは死亡。大爆笑もの)が雪崩の発生によって辛暁月はそれに呑まれて彼女と白雲は助かる(この時雪巓の家は破壊)場面がある。…それにしても報われんな、辛暁月。
今回、簡装版では削られたが一劍と小蓮の関係が明らかになる。一劍は二十年前の事件の後、大漠と呼ばれる砂漠の地(多分モンゴル辺り)に行き、そこで己を省みている時に小蓮と出会ったのである。小蓮は誰とも交わろうとしない異郷の怪人に唯一人自ら近付き、好を通じた。一劍も(己の剣を無情剣から有情剣へと昇華させる手立てとしてかどうかは分からないが)彼女を愛するようになっていた、というもの。
この時の楊恭如の民族衣装姿のとてつもなく可愛い事はさておき、一劍が中原に白雲を探しに行こうと彼女を同行させるその場面まで彼のヘアースタイルが昔のまんまであった事から、金髪・金眉が染めている事も確定した。奴は数百年、流行を先取りしていたようだ。
其れだけでは無く、一劍が白雲の行動を逐一モニターしている事も明らかになる。白雲の行く先々に一劍はふらりと現れると彼を導く一言二言を告げる辺り、こうした台詞を言える彼の精神的余裕と、燕北飛と再戦したいと云う熱望が伝わってくる。好きなのは莫愁の墓前で自分の迷いを告げる白雲に対して「傷付くのはお前だけではない。お前の愛した人も傷付くのだ。…死人は何も感じぬがな」と言う件である。そもそも自分が命じて(本人は強制しないと云っていたが大して変わらん)小蓮を近付けさせておきながら抜け抜けと云い切るこの理不尽さ(白雲自身は知らんが)。素晴らしいの一言である。どうしてこの作品には彼といい、楚江南といい、卓越した陰謀家が頻発するのだろう。楽しすぎる。…彼が白雲に付きまとうのはストーカーではなかろうかと思わなくも無いのだが。
小蓮と一劍の切ない掛相も見所だろう。「燕北飛と再戦できれば、その後はまた大漠へ戻ろう」と云い続ける一劍、「もう誰も巻き込みたくはありません」「白雲をこれ以上だますのは嫌です」と拒みつつも結局は一劍の笑顔見たさに要請通りに動いてしまう小蓮。互いを騙し騙し続く二人の切ない関係は見ていてこちらも辛いものがある。この二人は物語の全てを知っているが故に悲しいのである。
辛暁月はついに半死人状態に(一劍に追い詰められて崖から落ちた結果)。この人、一体何度酷い目に遭う事やら。ここまでくるとお笑い担当か?といぶかしみたくもなるが、彼女の演技の確かさがその「匂い」を薄めている。この人、キョンシーデートの白蛇さんであるがこのドラマでの扱いは「匂魂悪夢」での役に近いものがある。