『辺城浪子』

 小学館文庫にて全四巻が刊行。1999年6月、8月に二冊づつの変則的な発行だった。

粗筋
 黒塗りの鞘の刀を持つ、癲癇もちの傅紅雪は母親から父の仇・馬空群を殺せとそればかりを吹き込まれて復讐の旅に出た。その途中で出遭った葉開と云う、傅紅雪と全く正反対の朗らかな態度を取るが心の奥に彼と同質の翳りがある男。この二人の流浪子(とういうか殆ど傅紅雪)が18年前の恩仇に振りまわされながら、その自分達を縛る恩仇の謎を一つ一つ解いて行く。殺人機械とも云うべき傅紅雪は人々との恩仇の交差の中、次第に人間性を取り戻して行くが、それは彼の望みとは全く別の、より残酷な真実を目の当たりにする事になる…。

 古龍の『かくあるべし』ボンクラ論(『歓楽英雄』のそれと同質)が物語後半で炸裂する。今回のそれは『愛』である。正直、前半部分は私にとって余り読んでいて楽しくはなかった。登場人物は多いわ、主役とされる人物は人物的な魅力に乏しいわと、同時期に日本で刊行された『歓楽英雄』に比べるとどうしても見劣りする感が否めなかった。
 しかし、その認識は物語後半でがらりと変った。物語の主役の一人・傅紅雪が邪険にしても付き従っていた女性・翠濃に対して、彼女がいなくなって初めて気付いた感情…愛情に苦しむ様とその描写、苦しまなければ愛ではないと云いきってしまう古龍の言葉は私の心にヒットした。翠濃を誰よりも想いながらも己に課せられた復讐と言う重い使命を背負う彼は、折角戻ってきてくれた彼女に『やりたくなくても、やらねばならぬ』と彼女を再び置いて復讐行に向う。其の時、彼は己に向って言い訳をし、自分の行動に正当性を持たせようとする…『俺が去るのは、むしろあいつのためだ』『あいつがいずれさってしまうのなら、いっそ俺が先に去ればいい』と。そして本当にそれが罷り通る辺り、古龍の文の凄まじさがある。この文を読んでいて私は一つの歌を思い出していた。沢田研二の『サムライ』である(この歌を知らぬならば、必ず聞くべし。ボンクラ=不器用な男の道が炸裂している名歌だ)。
 傅紅雪の態度はその歌まんまだった。以前の単なる復讐鬼だった彼ならば、そんなボンクラな考えは持たなかっただろう。しかし、彼は愛情を知る事で親から教えられなかった人間性を獲得し、悩める存在となった。古龍は『愛情かくあるべし』と書きたいが為にここまで引っ張ったのか、と考えると最早物語序盤のタルイ展開の印象など一気に吹っ飛んだ。そして、二度目の別れを経、そして二度目の再会を二人が果たした時、彼は自分の感情を遂に曝け出し、恋人を抱き締めた。この辺りは感動ものである。しかし、流石はハードボイルドで鳴らす古龍先生、其の最も二人にとって幸せな一時こそ翠濃の最期の時でもあった。この辺りの展開は、もう予測の範疇に入っていたが実際に目にすると、最早感情移入してしまった傅紅雪同様、呆然とせずには居られない。この物語は傅紅雪と言う青年が人間性を獲得して行く試練を描いた作品なのである。嘗ては仇は皆殺しにするというレベルまでイッちゃっていた彼は物語の終盤では本来は仇であった人間ですら、殺す事を躊躇うようになる。その辺り、これも教養小説なのかな、と考えさせる物がある。この作品では漸くにして?『多情剣客無情剣』の登場人物・阿飛(ほんのチョイ役なのに挿絵がある)が出たり、小李飛刀こと李尋歓の事がすこぉしだけ語られている。彼らが何者か原版を読んでいない(読めない)日本人読者が理解するのにはそれから約二年半も待たねばならなかった…。

 

『歓楽英雄』

 学研から新書版で全三巻を一気に刊行。本当に凄まじい発刊ペースである。この作品が邦訳された時点で金庸に作品数が並んでしまった。で、それ以降人気が無いとかでまるっきり約二年半何にも出なかった為にまた追い越されてしまった。

粗筋
 本来金持ちの息子で何でも出来て…しかし今は其の独特の好い加減な性格から文無しになり、盗人になるしか方法が無くなった青年・郭大路は「富貴山荘」に忍び込んだ。しかし、其処は富貴どころか空き家もいい所で、しかもそこには寝台から一歩も出ようとしない怪人、どうしようもなく怠け者の王動がいた。王動は『其の剣を売って来れば飯・酒代になる』と言い、呆気に取られた彼は結局この怪人のいうままに自分の剣を売って食物に換えてしまう。だが、この奇妙な出遭いは二人を友人にし、其処で暮し始めた。そして変人二人のもとにその臭いに惹き付けられるが如く、次々に現れる一癖ありそうな人物。自ら七度死にかけ、内二度棺桶に入ったと語る燕七、そして燕七が道端で拾ってきた美少年・林太平。彼らは意気投合し、そのまま富貴山荘に暮し始めた。彼ら四人はお互いの過去を問わず、今の友情を信じていた。しかし、彼らの過去は様々な形で彼らの前に姿を現す。彼らはそれぞれが人には言えぬ過去を抱え込んでいたのだ。しかし、四人は互いの友情を信じる事で困難な事象に次々と立ち向かい、切り抜けてゆく。彼ら文無し四人組の明日はどっちだ?

 男のボンクラ魂に火を付ける傑作。ここには笑傲江湖で金庸が書かなかった真の自由人の姿、隆慶一郎の小説群に見られる自由人の魂の熱さがある。作者は豪放磊落な事で知られており、酒と女の日々を送ったと言われているが、この作品は彼の理想の姿、彼が『かくあるべし』と考えたであろう男の美学が随所に記されている。主人公・郭大路人生を信じ、公正が存在し、正義が必ず邪悪に打ち勝つ事を信じている子供の様な人物である。其のままでは話が動かないから、脇に様々な曲者達を作者は用意し、彼を様々なトラブルに巻き込む。矮人の蟻兄弟、盗人の上前を撥ねることを生業とする捕り手金獅子・夾棍と黒衣の剣士、大道芸人を装い郭達に近付く美少女・梅汝男、『縮骨』と呼ばれる骨格をいじって変装する術に長け、廣東出の飲み屋の親爺になりすます盗賊・鳳棲梧、因業質屋の活剥皮、もと王動の仲間だった盗賊達、林太平の父母、そして燕七の父・顔に十字の傷を持つ南宮醜。これらの脇役達はそれぞれが四人組の過去に関わっており、四人の秘密は回を追う毎に読者の前に明らかにされて行く。それらは一人の人間を世の中に絶望させるに足りる出来事である。が、四人組は其の都度、根拠の無い友情と武功・推理力で過去の問題を解決して行く。彼らは嘗てかかずらった社会の、江湖の柵を捨てて、只友情を唯一の拠所とし、お互いに腐し合いながら面白おかしく生きてゆく。何とおめでたい、幸せな、そして羨ましい連中だろう。この作品の訳者は第三巻の後書きで『平気でポンポン飛び出してくる、愛や友情という言葉に赤面しつつも、読み進むうちに、いつの間にかそれが快感に変っている事に気づく。』と記しているが、正に的を得た表現である。最近の漫画にも出てきようが無いこの辺りのクサイ言葉に感動を覚えさせる辺り、古龍の小説と其の訳の素晴らしさを窺い知る事が出来よう(もっとも燕七の言葉には若干の抵抗を覚えもするのだが…)。
 今の所、古龍の作品を読んでいて一番のお気に入り。其れは取りも直さずこの私がボンクラである事の証明に他ならないのであるが…

『多情剣客無情剣』

 約二年半振りに角川書店から思い出したように2002年一月に発刊、上下巻でソフトカバー、挿絵なしと言う非常に硬派な作りである。そしてその内容もボンクラ魂に火を付けるのに充分な痛快作である。
 本作で判った事と言えば、楚留香が主人公李尋歓の活躍した時代と同じかそれ以前であると言う事、李尋歓より前の世代の物語が例によって未訳の『武林外史』で語られていると言う事だろうか。ここから後の世代の物語が「辺城浪子」やら「白玉老虎」になる訳である。時代背景が不明な古龍の作品は登場人物が誰某から前か後かでしか判別がつかないと言う特徴をもっており、その点で基準となる当作品の意味は大きいとみるべきだろう。
 本作品は古龍のボンクラ小説の要とも言うべき『男とは云々』『人生は云々』調の台詞がぶんぶん出てきて筆者の涙腺を刺激せずにはおれない。まさに「ダサカッコ良い」の王道を行くキャラクターの描写がヒーロー世代の三十代前後のつぼに嵌る事請け合いである。本作品を読んでいてふと思い出したのは車田正美の漫画である。最も彼のパワーが炸裂していた「リンかけ」の解説で小林よしのりが指摘した「純粋娯楽の頂点」の世界、整合性は殆ど無いし、話がその場その場で作られている割にキャラクター性が突出しているが故に許せてしまうどころか嵌ってしまう…それと同様のものを感じずにはおれないのである。
 最早多くは語るまい。値段は高いがそれだけの価値はある。

李尋歓(焦恩俊飾)と阿飛(呉京飾)

'99年TVドラマ版『小李飛刀』

 現在筆者がVCDで鑑賞中のもので、一時間枠のドラマで全40話。中国内地で放映されていた当作品は、原作のなし崩し的というかその場凌ぎ的な展開を整理してより判り易くした物語の構成からなっている。原作ではさらりと流されていた李尋歓と林詩音の過去の物語に二話ほど割いてあり、毒婦・林仙兒がドラマの方では元々遊郭「萬花樓」の娼妓で、李尋歓が林詩音の想いを断ち切るべく打った偽装結婚の犠牲者と言う事になっており、その結果ああなったかの様に描かれている。なるほど、自分を結婚一夜目にして離縁し恥をかかせた男に対する復讐の為の手段として、色々な男を手管に巻いたという形ならば、原作のあのどろどろなイメージが多少は緩和される。主人公を演じる焦恩俊が過ぎない程度の美形で筆者的にはお気に入り。特に、こめかみ辺りの縦ロール癖毛がポイント高し。
 このドラマに出てくる他の登場人物が揃いも揃って濃いタイプのおっさんばかり(極め付けは高雄の演じる上官金虹!今のところ出番なしだがどう動くのか想像も出来ん)で、他に出て来そうな美形は上官飛くらいしか思いつかない。で、苦みばしった陰気かつ一本気な少年剣客・阿飛は呉京が演じているのだが美形なのは兎も角、少々明る過ぎる嫌いがある。林仙兒との掛け合いも今風でその辺はテレビドラマと言う制限もあるのだろうが残念ともいえる。林詩音は原作よりずっと行動力があるし、この分だと小紅とのエンディングすら怪しいものである。小紅にはさり気無く一番可愛い子を使っているんだけれど、役柄上後半までは只の狂言回しだろうし…まさか途中で林詩音を殺したりしないだろうな。
   其の他気付いた点でも流石は大陸ドラマ、李尋歓を少林寺に護送する時にあった五毒童子による毒の恐怖の演出をそのままやっているので、犬も本当に殺している。飛刀に喉笛貫かれれば血飛沫は飛ぶし、日本の二昔以前のつまらぬ自主規制が無かった頃の時代劇ののりをそのまま今の時代に残しているあたりも凄い。

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